比企朝宗の解説【鎌倉殿の13人】比企一族で姫の前の父

目次 contents
  1. 比企朝宗とは

比企朝宗とは

比企朝宗(ひき-ともむね)は、平安時代末期の武将です。
比企藤内朝宗とも言い、源頼朝の乳母になった比企尼との比企一族となります。
そもそも、比企氏は、藤原秀郷の末裔と称しています。
相模・秦野を本拠にしていた波多野氏が先祖とされ、康和年間(1099年~1104年)に、一族の波多野遠光が郡司として比企郡に移り、比企氏を名乗ったとされます。



宗家と考えられる、比企掃部允(ひき-かもんのじょう)の妻である比企尼が、1147年、京にて源頼朝の乳母を務めました。
そして、比企尼の甥・比企能員が、比企氏本家の家督継承していますが、比企尼の実子である比企朝宗は、すでに高齢だったようです。
なお、朝廷にも仕えており、内舎人として、比企藤内(比企藤内朝宗)と称されました。

年代的に、比企朝宗の父は、比企宗長であるとも考えられます。
家督を継がなかった理由は、京にいて、高齢でもあり、源頼朝を長く、支えることは難しいと判断したのかも知れません。

父・比企掃部允の出自に関しては、下記にてご紹介しています。

比企掃部允の解説~謎の出自に迫ってみると阿波・佐藤氏出身か?

また、比企能員が惣領を継承したあと、比企朝宗の妾?である、北条政子の官女・越後局が、1188年に、男子を産んだと言う記録もあります。
このように、比企能員の兄弟にあたるのが、比企朝宗であり、源頼朝に従うと、何度か使いとして上洛も果たしています。
木曽義仲を滅ぼした源頼朝は、それまで源義仲が支配していた北陸道の諸国に対し、比企朝宗を鎌倉殿勧農使として派遣し、田所の指揮・管轄を行わせています。
朝廷にも顔が効く比企朝宗でしたので、荘園・公領に対しての狼藉停止を、期待されたためと考えられます。
1186年、源頼朝の命にて、後白河法皇の熊野詣の費用を持参して上洛し、京都守護・一条能保の軍勢に加わると、源義経の追討や、郎党の探索を行い、源義経の家来・堀弥太郎らを興福寺で捕らえています。
比企藤内朝宗の領地としては、若狭国遠敷郡西津庄(福井県小浜市)など、各地にあったようです。
1189年、奥州合戦にも参陣しました。



その後、1192年、美貌であった娘「姫の前」が、鎌倉北条義時に見初められ、正室となっています。
そして、北条義時の次男・北条朝時(名越朝時)と、3男・北条重時が生まれました。

1194年2月、北条泰時が元服式を執り行う際にも出席しています。
その後、1203年9月、比企能員の変が起こり、北条義時に攻められて、比企一族は滅亡しました。
この時、殺害された中に、比企朝宗の名はないため、直前に、亡くなったとも考えられます。

(参考) 埼玉苗字辞典

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