比企尼(ひきのあま)~わかりやすい解説【鎌倉殿の13人】源頼朝の乳母




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比企尼とは

比企尼 (ひきのあま)は、平安時代末期から鎌倉時代初期に大事な役目を果たした女性です。
比企尼の実名はわかっておらず、一般的に父母も不明なため、出自は不詳ですが、藤原氏出身の可能性もあります。
結婚相手は、主に、京にて朝廷に仕えていた、比企掃部允(ひき-かもんのじょう)となります。

比企尼

比企氏(ひきし)は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡と東松山市)が所領であり、下野と武蔵の国司だった藤原秀郷の末裔を称しております。
ただし、普段は京にいたようで、夫の比企掃部允は官職が「掃部允」(かもんのじょう)ですので、朝廷(宮中)にて、宮中行事や、殿中の清掃、設備管理などの指揮を執っていた可能性もあります。

比企掃部允の出自に関しては、下記をご参照頂けますと幸いです。

比企掃部允の解説~謎の出自に迫ってみると阿波・佐藤氏出身か?

なお、比企氏は、後白河天皇にも近かった源氏の棟梁・源義朝とも親しかったようで、1147年に、源頼朝の正室・由良御前が源頼朝を産むと、乳母として比企尼が出仕しました。
乳母はほかに、摩々尼(ままのあま)、寒川尼/寒河尼(八田宗綱の娘)、山内尼(山内俊通の妻)と、もう一人、三善康信の叔母が付き添っていますが、明確に何名だったのかはわかっていません。





そして、1159年、源頼朝が伊豆配流となった際に、比企掃部允(ひき-かもんのじょう)が、妻・比企尼と共に京から領地の比企郡に入ります。
それからも、比企掃部允と比企尼(比企禪尼)は、領地から得た税収から1180年秋まで、約20年間も、源頼朝に仕送りを続けたとありますので、恐らくは、最初から支援する目的で京を離れたと考えられます。

函南・高源寺

下記の場所は、伊豆・函南(かんなみ)にある高源寺です。
高源寺の近くには、比企尼の伊豆の屋敷があったとされ、境内には、比企尼の宝篋印塔もありました。

比企尼の宝篋印塔

この函南・高源寺では、源頼朝が文覚(遠藤盛遠)が、源氏再興の密議を行った寺とも伝わります。
また、源頼朝が、石橋山へ進軍する際の「軍勢ぞろいの地」とも、伝えられている模様です。





比企尼には、3人の娘がおります。

長女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて、島津氏の祖である島津忠久を産んだともされます。
その後、丹後内侍は離縁し、安達盛長と結婚すると、生まれた娘は、源範頼(源義朝の6男)の正室となりました。

次女・河越尼は同じ武蔵の有力者である河越重頼の正室になって、源頼家の乳母を務めたほか、娘・郷御前が、なんと源義経に嫁いでいます。

三女は名前不明ですが、伊東祐清に嫁いで、死別したあと平賀義信に再嫁し、子の平賀朝雅を設けたほか、姉(次女)と一緒に源頼家の乳母にもなりました。

このように、比企尼の娘たちの嫁ぎ先も、強力に、源頼朝を支援する関係を築いたと言えます。
丹後内侍が産んだ島津忠久は、源頼朝の落胤とする説を、その後、島津氏は唱えています。
ただし、源頼朝の挙兵前に死去したと考えられる比企掃部允には男子がいなかったようで、比企尼は妹の嫁ぎ先である阿波・氏原氏の子?である能員を猶子(養子)として、比企氏の家督を継がせました。
この養子が「比企能員」と言う事になりますが、あわ出身(阿波国または安房国)とあります。
比企能員の正室は、渋河兼忠の娘と考えられますが、他にも妻がおります。
分かっているだけですと、若狭局を産んだ片山行時の娘、比企能本を産んだ三浦氏の娘と考えられます。
子は、余一兵衛尉、比企宗朝、比企時員(比企宗員)、比企五郎、比企能本、河原田次郎、若狭局・讃岐局、笠原親景の正室、中山為重の正室、糟屋有季の正室と、たくさんいますので他にも側室や後妻などがいた可能性があります。
新編相模風土記稿によると「比企能員の娘・讃岐局は、最初若狭局という」とあるため若狭局は、後年、讃岐局と呼ばれた同一の女性と考えられます。

1182年8月12日、鎌倉・大倉御所の東にあったと言う比企能員の屋敷にて、北条政子は、源頼朝の嫡男・万寿(源頼家)を出産します

比企能員の屋敷跡付近

この時、比企能員は源頼家の乳母父となり、源頼家が誕生した際には、最初の乳付けの儀式として比企尼の次女である河越重頼の正室が行いました。
また、前述のとおり、比企尼の三娘である平賀義信の正室もや、比企能員の正室・渋河兼忠の娘も源頼家の乳母となりました。

1189年7月の奥州征伐にて、比企能員は、北陸道(下道)の大将軍として参陣していますが、その前には、すでに比企尼は亡くなっていると考えられます。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、比企尼(ひきのあま)を、大女優の草笛光子さんが演じられます。
比企能員は俳優の佐藤次郎さん、妻で渋河兼忠の娘と考えらる「道」(みち)と言う正室は、女優の堀内敬子さんが演じます。

比企尼の出自

比企尼 (ひきのあま)の出身・出自は、一般的に不明ですが、2つのヒントがあります。

まず一つ目は、三善康信 (みよし-の-やすのぶ)関連です。
三善康信は、下級貴族で公家ですが、父・三善康光の妻である母親が、源頼朝の乳母の妹であるとあります。
すなわち、源頼朝の乳母を務めた女性の妹が、三善康信を産んだと言う縁があります。
そのため、源頼朝が伊豆に流されると、月に3回、京都の情勢を書状で知らせていたと言います。
1180年、以仁王の挙兵すると、源氏追討計画があるので、早く奥州へ逃げるよう、源頼朝に知らせたとあります。
このような情報があり、討たれる前に、源頼朝は、挙兵する決意をしたと言う事になります。
鎌倉にて武家政権を作る過程で、三善康信は鎌倉に呼ばれて、初代の問注所・執事となりました。
<注釈> 問注所(もんちゅうじょ)とは、訴訟事務を管轄する機関。
弟・ 三善康清は、公事奉行を務めています。

このように、重用された三善康信ですが、母の姉である源頼朝の乳母が、誰なのかは、判明していません。
しかし、消去法で考えてみますと、下記の通りになります。

比企尼、寒河尼、山内尼など乳母の中で、出自がよくわからないのは、比企尼。
山内尼に関しては、中村氏の娘・摩々局の可能性があり、寒河尼は八田宗綱の娘とハッキリわかっています。
比企尼に関しては、出自がよくわかりませんが、伊豆の源頼朝を経済的に20年以上、支援しました。





比企尼が、京の誰かに、常に情報を知らせるようにと、頼んだとしたら、当然、血縁がある者に頼むでしょう。
となると、三善康信の母の姉(源頼朝の乳母)が、比企尼である可能性は、充分に考えられる次第です。
ただし、確証できる証拠のようなものは、発見されていません。

もうひとつは、阿波・佐藤氏関連か、藤原氏関連となります。

古代氏族系譜集成に下記のような記述があります。

掃部允遠宗(比企郡司、実は藤原有清男。妻藤原公員妹・号比企尼、頼朝公乳母)
藤四郎能員(比企判官、実は藤原公員男。兄は比企藤内朝宗。妹は惟宗広言妻・島津忠久・忠季を生む)

上記から検証しますと、比企尼の夫である比企掃部允は、平安末期の関東では、必ずポイントになる、平将門を破った、藤原秀郷の子孫「阿波・佐藤氏」と言えます。
当初は讃岐・佐藤氏で、もともと藤原氏を称していましたが、佐藤公清のときに「左衛門尉」に任じられ、その子・佐藤季清と、孫・佐藤康清も左衛門尉になったので、官名の「左」と藤原の「藤」から「佐藤さん」と呼ばれるようになりました。
佐藤康清の子・佐藤義清(佐藤左衛門尉義清)は、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市)を領し、平清盛と同じく北面の武士であったが、武士を辞めて出家し、西行(西行法師)になったエピソードは有名なところです。

例えば、佐藤公清 の 4男・佐藤公郷の養子となった佐藤資清(佐藤助清)がおり、その子は首藤資通は源義家に従って、滝口刑部丞(内裏警護)として源義朝に従った山内首藤俊通となり、山内首藤俊通の娘・山内尼(摩々局)は、源頼朝の乳母を務めました。
山内首藤氏も、相模国出身で、例のとおり、藤原秀郷の後裔を称しているところです。
藤原秀郷の子孫は、佐藤氏をはじめ、足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・大友氏・波多野氏・松田氏・小野寺氏・尾藤氏・首藤氏・山内氏・伊賀氏・伊藤氏、那須与一宗隆も、この佐藤資清(佐藤助清)の系統におさまります。

比企掃部允遠宗になった佐藤有清の父?・佐藤公広は、肥前・後藤氏(後藤則明の養子)になったようで、源頼信・源頼義に従っていました。
この肥前・後藤氏は、のち、武蔵国比企郡野本をなぜか領地にする、野本基員と共通の先祖・藤原利仁を持ちます。
こうして、佐藤有清が、比企氏の家督を継いで、比企遠宗(比企掃部允遠宗)になったものと推測されます。
佐藤姓であったが、もとは藤原氏なので、藤原有清と記載されていても、おかしくはなところです。





さて、問題なのは、比企尼の出自としている藤原公員です。
古代氏族系譜集成では、比企能員も、藤原公員の子としていますので、前述した三善康信の話である、比企尼の姉妹が産んだのが比企能員と言う事ではありません。
しかし、藤原公員(ふじわら-きみかず)は、比企尼の兄でもあり、比企能員の父でもあるとしている部分は、しっかり検証する必要があります。
しかし、あっさり見つかったと思いきや、100年くらい前の人物で、時代が合わず、該当するような裏付けが取れませんでした。
佐藤姓・佐藤公員として調べても、わかりませんでした。
ただ、この時代、藤原北家の藤原氏でも、名前に「公」の字を比較的、よく使用しているのがよくわかりました。

また、比企尼の長女・丹後局は、京の官僚・惟宗広言の妻になっているので、比企氏じたいが最初、京にて暮していた可能性は高いでしょう。
そのため、比企尼の兄とされる藤原公員は、京にて生活している藤原氏か、領地は地方でも、武士として京にいた佐藤一族の関係者だとも考えられます。
となると、比企の尼は、京の藤原氏・佐藤氏関連が出自だと考えるのが、妥当なのかも知れません。





比企能員(比企藤四郎能員)の出身に関しても、愚管抄では「阿波国」が出自としているため、それをまともに捉えれば、比企尼も、阿波・佐藤氏の一族だった可能性も捨てきれません。

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