比企能員の娘【若狭局】(讃岐局)~次期将軍・源一幡の母

若狭局とは

ここでご紹介する若狭局(わかさのつぼね)は、鎌倉時代初期の女性で、鎌倉幕府の有力御家人・比企能員の娘です。
若狭の局は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の妻妾となり、建久9年(1198年)に、嫡男・源一幡を産んでいます。
要するに、鎌倉幕府で、将来、3代将軍になりうる可能性が高い、男子を産んだと言う事になります。
そのため、若狭局は、妾とされますが、正室扱いになった可能性もあるかと存じます。

若狭局

源一幡は、鎌倉・比企ヶ谷にある比企氏館にて、比企一族により育てられていたようです。
しかし、比企氏の権力が高まるのを恐れた北条時政北条政子は、源実朝を次期将軍へと考えます。
そのため、1203年9月2日、北条時政との対立にて「比企能員の変」となりました。
北条時政に呼び出された父・比企能員(ひき よしかず)は、暗殺されます。
北条勢(鎌倉勢)は、ただちに、比企氏館を攻め、比企一族は、自刃して果て、滅亡しました。



吾妻鏡によると、源一幡は焼死し、若狭局は、家宝を抱いて、井戸に身を投げたとあります。
愚管抄では内容が異なり、一幡は母が抱いて逃走を図りましたが、11月になって北条義時の手の者によって発見され、殺害されたとあります。
武蔵国比企郡では、若狭局が生きて逃れたともあり、比企能員の比企氏館近くにあったとされる宗悟寺に、源頼家の位牌が伝わります。

源一幡は享年6。

源一幡


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その後、1260年、のち7代執権になる北条政村の娘が、比企判官能員の娘に祟られて、蛇のような狂態を見せるようになったといいます。
鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって回復しましたが、北条政村は、比企氏の屋敷跡に、若狭局を蛇苦止明神として祀る社を、建立しました。
現在の、鎌倉・妙本寺にある蛇苦止堂となります。

蛇苦止堂

ただし、妙本寺の伝承では、最初、若狭の局と言ったが、のち讃岐局に変わったとあります。
実際、比企能員の娘としては、若狭局、讃岐局の2名の名が伝わりますが、同一の女性だった可能性が高いです。

若狭局の母は児玉党・片山行時の娘?

一般的に、若狭局は、父が比企能員と言う事以外、母の名前は不詳です。



ただし、1219年に、天台座主・慈円(じえん)が著した「愚管抄」(ぐかんしょう)に、下記のような記述があります。
愚管抄にある原文は下記の通り。

ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ。
ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。
一万御前ガ母ヲバマウケタル也。
ソノ行時ハ又児玉タウヲムコニシタルナリ。

私なりに現代語訳してみると、下記の通りになります。

比企(比企能員)は、その郡(比企郡)、父・比企掃部允の党(タウ)である。
片山行時(ミセヤノ大夫行時)と言う者の娘を妻にした。
源一幡(一万御前)をもうけた母である。
その片山行時は、又、児玉党を婿にした。(これは、片山行時の別の娘が、児玉党より婿を取ったと考えられる。)

以上の事からも、源一幡(一万御前)を産んだ、比企能員の娘・若狭局の母は、片山行時の娘と考えられる次第です。



児玉党の片山行時じたい、出自がよく分かりませんが、児玉経行の3男、もしくは秩父行重の子だった可能性があります。
秩父重綱 — 秩父行重(児玉経行の次男) — 片山行弘の弟とも考えられます。
片山氏は、秩父党から出た児玉党の一族で、比企氏の所領からも、そんなに遠いと言う事はないです。
また、秩父党が出自の武将としては、畠山重忠や、河越重頼など、もともと、源氏に関わりがありました。
和田合戦では、一族と見られる、片山刑部太郎、片山八郎太郎が討死している。

<参考> 埼玉苗字辞典

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