比企氏の乱(比企能員の変・比企能員の乱)~わかりやすく徹底解説




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比企氏の乱(比企能員の変・比企能員の乱)

比企氏の乱(比企能員の変・比企能員の乱)は、鎌倉時代の1203年に発生した、北条時政と、比企能員の権力争いと言えます。
北条時政(ほうじょう-ときまさ)は、娘の北条政子が、鎌倉幕府将軍・源頼朝の正室となっており、次期将軍とも言える、子の源頼家をもうけました。また、伊豆に源頼朝が流罪となっているときから、平氏の監視役とは言え、挙兵にも味方した、功労者です。
一方、比企能員(ひき-よしかず)の比企氏からは、源頼朝が生まれた時に乳母となった比企尼が、伊豆に流罪となっていた源頼朝を経済的にも支援したほか、もちろん、1180年、挙兵の際にも、比企氏の家督を継いでいた比企能員が協力しました。
1182年に生まれた源頼家は、鎌倉・比企ヶ谷の比企能員の屋敷(比企氏館)にて北条政子が出産しており、乳母に比企尼の次女(河越重頼の妻室)、比企尼の三女(平賀義信の妻)、比企能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれました。
このように、北条氏も、比企氏も「鎌倉殿」にかなり近い存在で、密接に関わっていることがわかります。

比企能員の変

1192年には、北条政子が源実朝(みなもと-の-さねとも)を産みますが、この時、比企氏の一族が乳母を務めた記録は無く、北条政子の妹・阿波局などが務めたようです。

乳母(めのと)とは、乳を与えるだけでなく「養育係」の役割もあり、単に養育した女性でも、まとめて乳母と呼ばれることがあった模様です。

そんなおり、1198年には、源頼家の妻妾となっていた、比企能員の娘・若狭局が、源頼家(17歳)の長男・源一幡(いちまん)を産みました。
この源一幡は、血筋的に、3代将軍になりえる武将です。

鎌倉幕府2代将軍・源頼家

その翌年、1199年に、源頼朝が死去すると、源頼家(18歳)が、鎌倉幕府の第2代将軍となりました。
ところが、有力御家人らは、源頼家が、直接訴訟を裁決する権利を停止し、北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行政・梶原景時・足立遠元・安達盛長・八田知家・比企能員・三浦義澄・和田義盛らで「13人の合議制」を敷いて、幕政を担うようになりました。
すなわち、源頼家は、お飾りの将軍になったと言って良いでしょう。





しかし、源頼家も、政所に命じて、小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野能成ら側近に手を出してはいけない、話がある場合には、このメンバーに伝えるようにと、出来る範囲で、抵抗を示しています。
それからまもなくの1200年、源頼家に理解を示していた侍所長官・梶原景時が標的とされ、御家人66名が、梶原景時の排斥を求める連判状を、源頼家に提出しました。
このとき、力を失っていた源頼家は、梶原景時を助けることが出来ず、追放された梶原景時は、その途中で襲撃されて、一族もろとも、滅亡しました。(梶原景時の変)

源頼家の抵抗

それから3年後、1203年5月、源頼家は、源千幡の乳母・阿波局の夫で、叔父でもある阿野全成を、謀反の疑いで捕縛し、更に殺害しました。
父・源頼朝の弟である阿野全成は、北条政子の妹である阿波局(北条時政の娘)を正室にしており、北条時政・北条義時と結んで、次期将軍に、北条政子が産んでいた源実朝を、立てようとしていました。
そうなると、源頼家と、比企能員の娘・若狭局の間に生まれていた、長男・源一幡が、3代将軍になれない可能性があるため、武田信光を派遣して阿野全成を捕らえると常陸国に流刑とし、更には八田知家に命じて誅殺した次第です。
また、阿波局の引き渡しを北条氏に求めましたが、母・北条政子が引き渡しを拒否していることから、源頼家は、母(北条氏)と対立する構図になっていたのは間違いないでしょう。





なお、源頼家は、1203年7月下旬に、毒でも盛られたのか?、大江広元亭で倒れて以来、体調不良に悩まされています。
8月末には危篤状態となり、いよいよ、後継者問題が本格的となりました。
源頼家は出家して、あとを子の源一幡に譲ろうとしたともあります。
そのため、長男・源一幡と、源頼家の乳母父で外祖父にあたる比企能員が、北条時政の策略に、はまることになります。

比企能員の変(比企氏の乱)

1203年8月27日、源頼家が危篤状態のなか北条時政らは、関西38ヶ国(伊勢・鈴鹿の関から西)の地頭職を、北条政子の子・源実朝(11歳)に与えて、関東28ヶ国の地頭職と諸国惣守護職は、源頼家の子・源一幡(5歳)が継承すると言う決定をします。
本来であれば、正統な後継者である、源頼家の子・源一幡(5歳)が、すべてを相続するところ、分割相続となったことに、比企能員は反感を抱きます。

1203年9月2日、比企能員は、娘・若狭局を通じて、病床の源頼家に、北条時政を討つように訴えました。
すると、源頼家は比企能員を呼ぶと、正式に北条時政追討を承諾しています。
吾妻鏡によると、この話を北条政子が障子の影から立ち聞きしたと言う事になっており、北条時政に危険を知らせました。
※港も頼家の近習のひとり中野能成が知らせたとも。
<注釈> この北条時政討つべしの話は、後年の作り話である可能性もある。

北条時政は、政所別当大江広元の屋敷に赴いて相談しており、大江広元は下記のように答えたと言います。

頼朝公以来、政務を補佐することはあったが、兵法については返答することはできない。
よく考えるべきではないか。

賛成の意思は示さないものの、比企氏討伐に反対はしなかったと、解釈した北条時政は、仏事(薬師如来像の供養会)の他、色々と相談したいと称し、比企能員を名越・北条時政の屋敷に呼び寄せました。





比企一族に行くのをやめるよう促された比企能員でしたが、行かなければ誤解を招くし、武装しているのも良くないだろうと「平服」で昼頃に、郎等2名・雑色5名と共に、北条氏館へ向かったと言います。
しかし、北条時政邸では、北条家の手勢が武装して待ち構えており、門を通って屋敷に入ったところ、比企能員は、天野遠景・仁田忠常によって、両手を掴まれ、竹藪に引き倒されて、誅殺されました。

ことの次第は、逃げ帰った比企能員の従者(雑色)によって比企氏館に伝わり、比企一族は、一幡の屋敷があった「小御所」(比企氏館の最奥部)に立て籠もりました。
この籠城とも言える行為は、まさに「謀反である」とされ、北条政子が比企討伐の命を発し、鎌倉勢の軍勢が派遣されました。

鎌倉勢(北条氏側)としては、北条義時が大将を務め、従ったのは、北条泰時、平賀朝雅、畠山重忠、小山朝政、小山宗政、小山朝光、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛、和田常盛、和田景長、土肥維平、後藤信康、藤原朝光、尾藤知景、工藤行光、金窪行親、加藤景廉、加藤景朝、仁田忠常などです。
比企勢としては、比企能員の子・比企三郎、比企時員、比企五郎、猶子の河原田次郎(児玉党河原田氏)、娘婿の笠原親景(笠原十郎左衛門尉親景)、中山為重、糟屋有季らが抵抗しました。
比企能員が殺害されてから、3時間後には、戦闘開始になったと言いますので、攻めては、かねてより、準備していた可能性もあるでしょう。

比企氏の乱

もはやこれまでと、比企一族は、館に火を放ち、源一幡の前で自決し、源一幡も焼け死んだとあります。
若狭局は、蛇苦止の池に身を投げて自害。
比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は、女装して逃走を図りましたが、道中で見つかり加藤景廉に首を取られました。
北条時政は、大岡時親を派遣して、死骸を検分させています。

夜に入ると、比企能員の最初の正室の父とされる、渋河兼忠が誅殺されています。

翌日9月3日、比企能員の妻・妾ならびに比企能員の末子・比企能本(2歳)は、和田義盛に預けられ、のち安房国へ配流となりしまた。
小御所の跡地の死骸の下から、焼け焦げた小袖が見つかり、乳母が源一幡のものであると証言しています。
一幡の遺骨は大輔房源性によって集められ、高野山奥の院に納められました。





9月4日、小笠原長経、中野能成、細野兵衛尉が、比企氏の乱に連座して捕まりました。
糟屋有季・笠原親景や児玉党も討たれたとあります。
島津忠久は、大隅国・薩摩国・日向国の守護職を没収され、北条氏が薩摩・大隅の守護に任ぜられています。
こうして、比企氏の遺領はと守護国は、北条氏の支配下に置かれました。

比企氏滅亡後の経過

3日後の9月5日、源頼家は危篤状態から回復し、比企氏の事件を知ります。
堀親家を使者として、和田義盛と仁田忠常に命じて、御家人らに北条時政を討つよう命じました。
しかし、和田義盛はその書状(御教書)を携えて北条時政の屋敷に入ります。

9月6日、仁田忠常のほうは、源頼家の命を受けながらも、比企能員追討の恩賞を受けるため、北条時政邸に向かったと言います。(恐らく呼び出された模様)
しかし、なかなか、夜になっても帰ってこなかったので、弟の仁田忠正・仁田忠時らは、兄・仁田忠常が、討たれたと勘違いしたようで、急ぎ北条義時邸に駆け付けたため、北条家によって討ち取られました。
この時、仁田忠常は名越邸を出て屋敷に戻る途中だったようで、弟らが討ち取られたと知ると御所に参上しようとしたため加藤景廉によって討たとあります。
和田義盛と仁田忠常に、書状を届けた堀親家も、同じ日に捕えられ、工藤行光によって誅されています。

9月7日、北条政子の命により、源頼家の出家が決定。また、朝廷より、源実朝(源千幡)が征夷大将軍に補任。(早いです)
9月10日、次期将軍になる源実朝が北条時政の屋敷に移り、御家人らに所領を安堵する文書が北条時政から出されおり名実ともに幕府最高権力者になりました。
9月29日、鎌倉追放となった源頼家は、伊豆・修禅寺にて幽閉となりました。

翌年、1204年7月18日、源頼家は修善寺温泉で入浴中、金窪行親らに襲撃されて殺害されました。享年23。
北条時政は大江広元と並び、鎌倉幕府の政所の別当となり、新将軍・源実朝の補佐を務めて行きました。





源頼家の死から約15年後の1219年1月27日、源頼家の次男で僧侶になっていた公暁(くぎょう)が、鶴岡八幡宮の境内にて「父の仇」と、3代将軍・源実朝を殺害しています。

下記でも色々と比企氏関連ご紹介させて頂いておりますので、もし、お時間が許せばご覧頂けますと幸いです。

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