2分でわかる【畠山重忠】とは~最高の名誉とも言える鎌倉入りの先陣武将




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目次 contents
  1. 有能な武将・畠山重忠

有能な武将・畠山重忠

畠山重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期の武将で、1164年に生まれた。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠を俳優の中川大志さんが演じられる。
畠山重忠の父は畠山重能(秩父重弘の嫡男)で、母は、三浦義明の娘、または側室・江戸重継の娘とされる。
畠山氏は、秩父氏の有力一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を領し、武蔵国留守所総検校職を持つ国内最有力御家人。
同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがおり、武蔵国に勢力を広げている。

畠山重忠

1180年、源源頼朝が伊豆で挙兵した際、父は大番役として京にいて、平家側について転戦している。
深谷にいた畠山重忠(17歳)は、当初、平氏に従って軍勢を進め、源頼朝に味方した三浦勢を鎌倉にて補足。
衣笠城の戦いにて、外祖父の三浦義明を討ち取った。
その後、源頼朝が、安房(千葉)に逃れて再起を図り、千葉常胤、上総広常らと隅田川を渡る頃、畠山重忠は、一族の河越重頼、江戸重長とともに長井渡して、源頼朝に臣従した。
源頼朝の鎌倉入りの際には、名誉ある先陣を、畠山重忠が務めている。





以後は、鎌倉幕府の有力御家人として活躍し、木曾義仲討伐のため源義経の軍勢に加わり、宇治川の戦いでも戦功を挙げている。
平家との戦いでは、一の谷の戦いの「鵯越えの逆落さかおとし」の場面で、愛馬「三日月」を背負って坂を下るシーンが有名。
鎌倉での屋敷も、大蔵御所に近い場所にあり、源頼朝が、2度上洛した際には、名誉ある先頭をつとめるほど信頼されていた。
源頼朝の死後はその遺託を受け、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の補佐もしている。

畠山重忠

畠山重忠の最初の妻は、足利遠元の娘・菊の前で、1183年に畠山重秀が生まれている。
のち、正室に北条時政の娘(6女)を迎え、誕生した畠山重保が嫡子扱いになった模様。
しかし、権力を狙う北条氏の策略にはまって行くようになる。





源頼朝の死から5年後の1204年、朝廷や公家との交渉役を務めていた平賀朝雅と、子の畠山重保が、京の酒席にて口論となり、確執が深まる。
平賀朝雅の妻は、北条時政と牧の方の娘であり、畠山氏をおとしいれようと、稲毛重成を使って、御所にいる将軍・源実朝に対し、畠山重忠の謀反を訴えた。(畠山重忠の乱)
そのため、1205年6月22日早朝、鎌倉にいた子の畠山重保が、由比ガ浜に呼び出されて、北条時政の意を受けた三浦義村によって殺害される。
鎌倉で騒ぎになっているとの知らせを受けた畠山重忠は、武蔵・菅谷館から、134騎を率いて鎌倉へ急いだ。
しかし、北条義時率いる鎌倉勢は、、武蔵・二俣川(神奈川県横浜市旭区二俣川)にて待ち伏せし、畠山重忠の軍勢と「二俣川の戦い」となった。
畠山重忠は逃げずに覚悟を決めて奮戦するも、以前から準備をしていたかのような鎌倉勢は大軍であり、愛甲季隆の弓を受けて、討死にした。享年42。

二俣川の戦い

翌日、鎌倉の経師谷にいた畠山重忠と同じ一族で、小山田有重の子・榛谷重朝と子息の榛谷重季・榛谷秀重と共に、三浦義村に討たれて榛谷氏は滅亡。
また、畠山重忠謀反を訴えた稲毛重成(榛谷重朝の兄)は、無実の重忠を讒言したとして、大河戸行元によって殺害され、子の小沢重政は宇佐見祐村(宇佐見祐茂の次男)に討たれており、小山田氏も粛清された。





畠山重忠の旧領と名門・畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が、畠山重忠の未亡人となった、北条時政の娘(6女)を妻にして、継承されている。
この足利義純の源姓・畠山家は、足利一門の中でも斯波氏の次に高い序列となっており、室町時代には、紀伊国、河内国、越中国の守護を務め、分家は七尾城にて能登守護にもなった。

以上ですが、畠山重忠は有能な武将でして、逸話なども、他にもたくさんあります。
しかし、この記事では、短くするため、だいぶ省略して説明致しております。
もう少し、詳しく知りたい場合には、下記もあわせてご覧頂ご
ご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

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