畠山重保の解説(2分でわかりやすく)~鎌倉・由比ガ浜に呼び出されて殺害される

目次 contents
  1. 畠山重保とは

畠山重保とは

畠山重保(はたけやま-しげやす)は、鎌倉時代の武将で、父は畠山重忠、母は北条時政の娘となる。
兄に、足立遠元の娘が1183年に産んだ、畠山重秀(はたけやま-しげひで)がいるが、北条時政の娘の方が正室であったと考えられ、弟である畠山重保(畠山六郎重保)が嫡男扱いになったようだ。
畠山重保は、美男の英雄として名高く、鎌倉では、現在の大鳥居の近くに、屋敷があったと伝わる。

畠山重保

1203年、比企能員の変があり、源頼家も暗殺され、鎌倉幕府3代将軍に源実朝が就任する。
そして、1204年、源実朝(13歳)と、権大納言・坊門信清の娘・坊門信子(ぼうもん-のぶこ)が結婚することになり、15名の若武者が京都へ迎えに行った。
その15名のメンバーは、北条政範、結城朝広、千葉常秀、畠山重保、筑後知尚、和田朝盛、土肥惟光、葛西清宣、佐原景連、多々良明宗、長井太郎、宇佐美三郎、佐々木小三郎、南條平次、安西四郎と、この中に、畠山重保の名が見られる。
しかし、歓迎の酒宴の席で、京都守護・平賀朝雅と、畠山重保が喧嘩になった。
※また、同じく京に赴いていた北条政範(北条時政と牧の方の子)が、僅か16歳で急死した。



北条時政の娘を正室にしていた平賀朝雅は、「畠山氏の親子が謀反を企てている」と、北条時政と牧の方に讒言する。

1205年6月22日早朝、北条時政の命を受けた稲毛重成から、謀反人が集結しているとして、由比ガ浜に呼び出された畠山重保と郎党3名は、殺害を命じられた三浦義村の家来・佐久間太郎ら30騎によって討たれた。
父・畠山重忠も、北条時政から呼び出され、武蔵・菅谷館から、150騎にて急ぎ鎌倉を目指す。
嫡子・畠山重保が殺害されたことを、出発時点ではまだ知らなかったとされる。
そして、二俣川の戦いにて、北条義時が率いる、鎌倉勢の大軍によって、父・畠山重忠や兄・畠山重秀も討死し、畠山氏は滅亡した。(畠山重忠の乱)

皇国地誌によると、鎌倉御家人としての畠山重保の別邸?(畠山六郎重保居館)は、神奈川県横浜市戸塚区汲沢(横浜市立戸塚高等学校の付近)にあったと推定されているが、開発が進んでおり、遺構や案内板などは全くない。
偲ばせるものは、源氏山、六郎丸と言った古い地名が残っている程度になる。
ただし、畠山重忠の念持仏があると言う東光禅寺近くの、神奈川県横浜市金沢区釜利谷南の墓地に「伝畠山重保墓」と伝わる墓があり、戸塚とはだいぶ離れているため、いずれの伝承も、今後、さらなる研究が必要だろう。

畠山重保の屋敷があったとされる、鎌倉・若宮大路の大鳥居近くにも、屋敷跡の石碑と宝篋印塔がある。

畠山六郎重保墓塔

大型の宝篋印塔は、畠山六郎重保墓塔と伝わり、塔の基礎部分に「明徳第四 発酉霜月三 日大願主 比丘道友」と刻まれていると言う。
明徳4年は室町時代1393年であり、比丘道友なる子孫が、後年、供養塔として建立したのだろう。



ただ、鎌倉の畠山氏の屋敷は、鶴岡八幡宮の右わきにあったため、この場所が、畠山重保の屋敷だったのか?、不明といったところだと考えられる。
昔の海(砂浜)は、もっと、内陸にまで達していたと考えると、この宝篋印塔がある付近で、畠山重保は殺害された可能性もあるだろう。

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