稲毛重成の短め解説~北条時政の娘を迎えた愛妻家として知られる有力御家人




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目次 contents
  1. 稲毛重成
  2. 稲毛重成の墓

稲毛重成

稲毛重成(いなげ-しげなり)は鎌倉時代初期の武将で、桓武平氏秩父氏流の小山田氏(おやまだし)で武蔵・小山田城主である小山田有重の嫡男と考えられる。
生年と生母は不明。
父、の兄弟には畠山荘(埼玉県深谷市)の畠山重能がおり、その子に畠山重忠がいる。
元服すると小山田重成との名が見られるが、小山田氏の領地の一部と推測できる稲毛荘(川崎市の北部)を領するようになると、はじめ武蔵・小沢城を本拠にしたようだ。
その後、子である小沢重政(小沢小太郎重政、小沢二郎重政)に小沢城とその付近の所領を譲り、稲毛三郎は枡形城の麓に移り稲毛重成(稲毛三郎)と称した。
兄弟には二俣川の榛谷重朝、田奈有朝、小山田重親、森行重らがいる。





1180年、源頼朝が挙兵した際、父・小山田有重や畠山重能らは京で大番役だったため、秩父一族・小山田一族もそのまま平家に味方した。
その後、源頼朝が房総から鎌倉を目指して隅田川を渡る際に、河越重頼・畠山重忠ら秩父一族と共に稲毛重成も源氏の軍勢に合流した。
そして、領していた稲毛荘を安堵されたようで、吾妻鏡では1184年頃から呼ばれる名前が変わったようで、稲毛重成の名で記載されるようになっている。

稲毛荘の名にもなっている稲毛舘は、現在の広福寺(廣福寺)にあったとされる。

広福寺(廣福寺)

背後には詰め城とされる枡形城があり、多摩川の水運を監視するのにはもってこいの場所だ。

稲毛重成の妻(稲毛女房)は北条時政の娘で、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、役名:あきとなっており、俳優(女優)の尾碕真花さんが演じられる。
稲毛重成は、俳優の村上誠基さんが演じられる。

ちなみに、稲毛重成の子は、武蔵・小沢城の小沢重政、宇都宮頼綱の妻、綾小路師季の妻などが見受けられる。

木曾義仲討伐では、畠山重忠、稲毛重成・榛谷重朝らも源範頼の軍勢として出陣した。
続いて、平氏との戦いでも、一ノ谷の戦いなどに参じている。

1189年、奥州征伐では稲毛重成・榛谷重朝の兄弟も参陣し、1190年、源頼朝が上洛した際にも同行した。

稲毛重成

1195年6月、源頼朝の再上洛した際にも稲毛重成(稲毛三郎)は随行したが、帰り道の美濃・青墓駅(大垣市)にて、妻の危篤が知らされた。
この時、源頼朝から名馬・三日黒を下賜され、稲毛重成は急ぎ戻ったが7月に妻が亡くなると、出家して法名を道全と名乗った。
その後、文献では、稲毛入道、小沢入道とも記載されている。

稲毛重成(稲毛入道)は亡き妻を供養するため、相模川近くに寺堂を建て、念仏を唱えていたという。
しかし、相模川を渡る際に、落命者がいることを見て、妻である女房の追善のため、1198年、莫大な費用を投じて相模川に橋をかけた。
その橋の落成供養に源頼朝も出席したが、帰り道で落馬し、その後鎌倉にて死去した。





1200年、梶原景時が滅び、1203年には比企能員も滅亡し、2代将軍・源頼家は幽閉されて源実朝が3代将軍となると、北条時政が実権を握った。

1205年、畠山重忠の乱となり、北条義時らの大軍と二俣川の戦いになると畠山重忠は愛甲季隆に射られて討死。
しかし、畠山謀反を伝えた策謀の中心人物との汚名をきせられて更に翌日には三浦義村が弟・榛谷重朝らを殺害。
稲毛重成は大河戸行元によって殺害された。
子の小沢重政は宇佐美祐村に討たれており、秩父党(小山田氏)は事実上滅亡した。

稲毛一族は讃岐国へ逃れたともある。
小山田氏は郡内にて生き延びた一族がおり、戦国時代には武田信玄のもとで活躍する小山田信茂などがいる。

稲毛重成の墓

稲毛重成の墓は、稲毛館があったとされる現在の広福寺(廣福寺)にある。
広福寺の入口から入って一番右奥(墓地の一番奥の右側)にあった。
妻・稲毛女房の墓石もあるようだ。

稲毛重成の墓

殺害されたあと、稲毛重成の墓(供養塔)を子孫が建てたのだろうか?
広福寺(廣福寺)への行き方は、稲毛館のご紹介記事にて確認可能。

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