河田次郎のわかりやすい解説~大舘に住む奥州氏原氏の家臣【鎌倉殿の12人】




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目次 contents
  1. 河田次郎とは

河田次郎とは

河田次郎 (かわだ の じろう)は鎌倉時代初期の武将で、安田次郎とも言う。
先祖など氏族は不明。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の小林博さんが演じられる。

領地は秋田・大館であり、昔は火内(比内・ひない)と呼ばれていた。
いわゆる蝦夷(えみし)が住んでいた土地で、安倍・清原・藤原といった有力豪族が支配するようになると、大館には奥州・藤原氏に仕えた河田氏が「贄柵」を本拠にした。

贄柵(にえさく)の「柵」と言うのは、よく言う城・館のことで、北東北では「柵」や「館」(たち・だて)と呼ぶことが多いためである。





1189年、平泉藤原泰衡源頼朝の征討を受けると厨川の戦に破れ、平泉館に火を放つと3名の家臣と共に夷狄島(北海道)への逃亡を図った。
その途中、数代の郎従である贄柵の河田次郎を頼る。
平安時代も戦国時代も、蝦夷地に渡るためには日本海ルートのため、大舘を経由して日本海側へ出ようとした意図がよくわかる。
また、平泉まで遠かったのと、藤原泰衡は兵力を分散して鎌倉勢を阻止しようとしたので、日本海側から北上する鎌倉勢への備えとして兵力温存されていた河田氏を頼るのもしかりだ。

河田次郎は手厚く迎え迎えたが、9月3日未明、裏切って藤原泰衡を殺害。(享年35とも)
9月6日、藤原泰衡の首級を、源頼朝が進軍していた陣岡の梶原景時に届けた。
陣岡(じんがおか)は、岩手県紫波郡にあり、このとき、源頼朝は蜂杜(はちもり)に陣を敷いており、比企能員宇佐美実政も合流した。
現在、陣ヶ岡公園と蜂神社があるが、この陣ケ岡は日本武尊坂上田村麻呂蒲生氏郷などその時代で何度も攻め手が陣を張っている要所だ。

陣岡では和田義盛畠山重忠らが首実検を行った。
そして、源頼朝はかつて前九年の役の際に源頼義が厨川柵主・安倍貞任の首を丸太に釘で打ち付たのと同じように、藤原泰衡も同様に眉間に八寸(24cm)の釘を打ち付けを命じたと言う。

しかし、不義不忠の臣、八虐の罪に値するとして河田次郎は小山朝光に預けられ斬罪となっている。

なお、地元に伝わる伝承によると、鎌倉勢の追っても迫り、もう逃げられないと察した藤原泰衡は、8月26日、家来に命じて源頼朝の陣に「投げ文」を投げて助命嘆願したと言う。

吾妻鏡によると、命乞いの返事を比内郡・贄の里周辺にて、立て札にしてくれとあったと言う。
しかし、返事がなかったのか、地元では藤原泰衡は館から川向いにある葦原の中で自害して果てたとなっている。
そして困った河田次郎は、ともあれ藤原泰衡の首を持って鎌倉勢にへ届けたと・・・。

河田次郎が不忠として処断されたのは、武勇ある河田次郎と大舘の勢力をそぐと言う意味もあったようだ。
そのため、河田一族も捕縛されて処刑されている。

その後、大館地方は、武田一族で甲斐国浅利郷の浅利義遠(浅利太郎冠者義遠)に与えられた。
そして浅利知義が派遣されて比内・浅利氏となったが、一族や家臣らも移動・繁栄したようで大舘には細かい館がたくさんある。

なお、藤原泰衡の首のない遺体は贄柵の里人により、錦の直垂に包まれて埋葬され「錦様」と呼ばれるようになった。
その埋葬場所には錦神社が建てられている。

平泉・中尊寺の金色堂に、眉間に穴のあいた頭蓋骨が治められている。
長年、首桶は藤原忠衡のものとされてきたが、調査により斬首された藤原泰衡の首であることが判明した。
その首桶に蓮(はす)の種子が入っていて、800年の時を経て咲かせるのに成功したものが「中尊寺ハス」となっている。





ちなみに、宇佐美実政によって生虜りされた由利維平(ゆりこれひら)は、藤原泰衡の首が陣岡に届けられた翌日に連れてこられた。
由利維平は温情をもって許されたが、河田次郎より先に来ていたら、見せしめとして殺害されていたかもとも感じる。

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