スポンサーリンク
浅利義遠(浅利与一義成)とは
浅利義遠(あさり よしとお)は、平安時代末期の武将で1149年に生まれた。
父は常陸・武田郷から甲斐・義清館(市川)に移り住み、甲斐源氏の祖となった武田冠者・源清光(みなもと の きよみつ) で、母は不詳の11男。
兄弟はとても多く、逸見光長、武田信義、二宮清隆、河内義長、田井光義、曾禰厳尊、奈胡義行、八代信清、利見義氏、河内長義、道光、光賢といる。
そして、甲斐国八代郡浅利郷の領地を得て浅利義遠(浅利与一義成)と称した。
下記はシルクの里公園にある浅利義遠(浅利与一義成)の銅像。
なお、歴史書などによっては、浅利義遠の読み方・記載が様々あり統一はされていない。
平家物語 : 阿佐里与一
吾妻鑑 : 浅利冠者遠義、浅利冠者長義、阿佐利冠者長義、阿佐利與一義遠
尊卑文脈 : 義成(号浅利与一)
甲斐国志 : 浅利与一
境川村・八幡神社棟札 : 与一能成
大聖院位牌 : 浅利前出羽守儀成
1180年、伊豆にて源頼朝が挙兵すると、兄・武田信義も挙兵。
平氏討伐において、武田勢は源頼朝と協調路線を取り、武田信義、浅利義遠、安田義定らは、源範頼・源義経らと一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いにも参じた。
浅利義遠(浅利与一義成)は、弓の名手として活躍し、のち奥州征伐でも武功を挙げると、源頼朝から陸奥国比内地方(大舘)の地頭職を得ている。
そして浅利知義が派遣されて比内・浅利氏となったが、一族や家臣らも移動・繁栄したようで大舘には細かい館がたくさんある。
佐奈田与一、那須与一と共に「三与一」としても知られている。
ちなみに通常の場合、余一とは「十余る一」つまり11男を意味する名となる。
那須与一も11男だったようだ。
1201年、越後・鳥坂城の城資盛・姉妹の板額御前ら城一族が鎌倉幕府打倒の反乱を起こすも、佐々木盛綱らが討伐。(建仁の乱)
このとき、女武将ながらも弓の名手だった坂額御前が捕虜となり鎌倉に送られ、和田義盛・比企能員らの尋問を受けた。
吾妻鏡によると、板額は、武勇にすぐれ、なかなかの美人と記されている。
そして、おじけずくことなく堂々とした坂額御前の振る舞いに、深く感銘を受けた浅利義遠(浅利与一義成)(53歳)は将軍・源頼家に願い出て、坂額御前を妻として貰い受ける。
この時の逸話として、下記のような記録が残っている。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家が、なんで謀反の徒を室に望むのか?と聞くと「彼女との間に武勇に秀でた男子を儲けて、幕府や朝廷に忠義を尽くさせたい」と答えたので笑って許したとある。
坂額御前は浅利義遠の妻となると甲斐・浅利郷に移り、一男一女をもうけたとされる。
浅利義遠(浅利与一義成)の没年だが、浅利山法久寺所蔵の位碑に「寳弓寺殿一箭存譽大居士 承久三巳年(1221年)九月七日逝年七三才」とある。
この1221年に73歳で亡くなったと言う記録から、逆算して生年が分かっている次第だ。
浅利に近い笛吹市境川町小黒坂に、板額御前の墓所との伝承がある板額塚がある。
板額が生んだ女子が、武田信光の7男・石橋八郎信継に嫁いだとされ、その石橋氏の領地が境川郷と言う事になるので、晩年には石橋氏の世話を受けていたのかも知れない。
もうひとり、浅利義遠の子としては浅利知義(浅利太郎)が伝わっているが、この男子も坂額御前が産んだ可能性がある。
浅利与一公の五輪塔
シルクの里公園の東側に、浅利与一義成の墓とされる浅利与一の層塔付五輪塔がある。
敷地的には大福寺の境内に当たるようだが、多くの五輪塔が並んでおり浅利一族の墓と考えられているが、かなり立派な墓所である。
駐車場がある場所や、浅利与一義成の墓の場所などは当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
・板額御前とは~鎌倉武士として戦った越後の女性武将で弓の名手
・佐奈田義忠【佐奈田与一】わかりやすい解説~郎党・文三とは
・越後・鳥坂城(胎内市) 上杉家筆頭家老「中条藤資や中条景泰」
・浅利信種墓所と与一地蔵【浅利与一】山梨県大月市
・義清館(市川)の解説~武田冠者・源義清が常陸から流された地
・出羽・大館城 浅利勝頼・浅利頼平の比内浅利氏