5分で分かる渡辺綱「鬼退治伝説」を残し渡辺氏の祖となった平安の猛将




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目次 contents
  1. 渡辺綱とは

渡辺綱とは

徳川家康に徳川四天王がいたように、平安期の武将でも断トツの人気を誇る源頼光にも四天王と呼ばれる武将がいました。
その中でも筆頭格の武将とされているのが、本項の主人公・渡辺綱(わたなべのつな)です。

別名を渡辺源次綱、源次綱とも呼ばれる渡辺綱は、天暦2年(953年)に武蔵国足立郡箕田村(埼玉県)に武蔵権介であった源宛の息子として生まれました。
父の宛は綱が生まれた年に夭折してしまい、源満仲の娘を生母としていた綱は、母の実家である摂津国西成郡渡辺(大阪府)に移り住みます。
また、綱は母方の祖父・満仲の娘婿である源敦の養子にもなっており、生まれは東国ながら畿内で育ったようです。





金太郎伝説で有名な坂田金時と並んで著名な武人として有名な渡辺綱ですが、このように彼の少年時代は、武蔵国に生まれた事と父の死に伴って摂津に移り住んだこと以外ははっきりとしていません。

頼光と共に歩んだ生涯

畿内に移り住んだ綱の人生に多大な影響を与えたのが、彼にとって母方の祖父に当たる源満仲の息子である頼光でした。綱がいつ頃頼光に仕官したのかは定かではありませんが、正暦元年(990年)に頼光が肥前守として下向した際に綱が随行し、その際に奈古屋(佐賀県)で授という男の子を授かりました。綱が953年生まれであれば、遅くとも30代の頃には頼光の家臣であった可能性はあります。なお、この授の孫に当たる松浦久が後に水軍を率いて活躍する松浦党の祖先とされています。

また、寛仁元年(1018年)には頼光らと共に大江山の夷賊討伐(※1)にも参戦し、その戦いは後世に悪鬼・酒呑童子を討ち取った伝説のモデルとなりました。氷川八幡神社の箕田碑によると、この2年後に正四位下・摂津守の位を頼光が賜った際、綱もまた従五位下・丹後守になったと言われています。

治安元年(1021年)に頼光が亡くなり、その4年後の万寿2年(1025年)に綱はその後を追うように世を去りますが、その時に辞世として残したのが以下の和歌です。
“世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしのはら”
こうして渡辺綱は人生を終えますが、松浦党の祖になった授とは別に筒井久という息子を儲けており、彼の子孫は内裏に仕える滝口武者になり、源平の争乱では平家と戦います。他にも越後に定住した赤田氏と瓜生氏は後醍醐天皇に仕え、戦国時代に豊臣秀吉の弾圧を受けた渡辺党、そして徳川家康に仕えた渡辺守綱も綱の子孫と言われています。

今も語られる妖怪退治の伝説

これまで紹介したのは、歴史上の人物としての渡辺綱の事績です。しかし、綱の名を不動のものとしたのがそれから来る伝説の数々であり、最後にそれらを紹介して終わらせて頂きたく思います。

前述した酒呑童子退治のみならず、綱にはうわばみや鬼、女怪などなど多くの妖怪と戦った伝説が残されており、中でも著名なのが茨木童子という鬼との戦いです。この鬼は酒呑童子の側近で、童子と同じく人間出身の鬼神で相方だったとも恋人の鬼女だったともされる大妖怪で、大江山での戦いを生き延びて京都の各所(羅生門、一条戻橋など)で仇敵の綱を襲うものの、名刀・髭切による彼の反撃で腕を斬られます。

陰陽師(安倍晴明とも)の進言で物忌みをしている綱の屋敷に、彼を育ててくれた老女(伯母ないしは養母)の姿で茨木童子は襲来、綱を油断させて切り落とされた腕を奪い返してどこかに消えていくと言う、古くから戯曲や説話で愛されてきた伝説が著名です。これらの逸話から綱の子孫だと思いこんだ鬼が恐れて退散するので、渡辺という名字ならば節分の豆まきが必要ないと言うユニークな伝承も生まれました。

また、綱に由来する山号の綱生山當光寺(東京都)の伝承によると綱が出身地でもある三田(港区)で過ごしたとされ、小童寺(兵庫県)には霊廟があるなど、墓所や終焉の地も様々に伝えられており、その死から1000年近く経った現在もなお、渡辺綱は各地でヒーローとして親しまれ、その伝説を語り継がれています。

(※1)大江山の鬼退治伝説のモデルになったとされる事件は、990年、995年、996年など諸説あり





参考にしたサイト、文献

古社への誘い 神社散策記 
兵庫県立歴史博物館
綱生山當光寺ホームページ

(寄稿)太田

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