建春門院(けんしゅんもんいん)を簡潔に解説~後白河天皇から寵愛を受けた平滋子




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目次 contents
  1. 建春門院とは

建春門院とは

建春門院(けんしゅんもんいん)は後白河天皇の女御(にょうご)・皇太后になった平安時代後期からの女性。
本名は平滋子(たいら の しげこ) と言い、平時信の娘として1142年に生まれた。
母は中納言である藤原顕頼の娘・藤原祐子、山槐記によると若狭局(丹後局の母)に養育されたとある。
兄弟には平時忠・平親宗、姉妹には二位尼・平時子(平清盛の継室)、冷泉局(建春門院の女房)、平清子(平宗盛の妻)、坊門殿(平重盛の妻)などがおりバリバリの平家一門と言える。
すなわち、平清盛の妻・平時子の異母妹が平滋子と言う事になる。





成長した平滋子は、鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として出仕すると、通称・小弁局(こべんのつぼね)と呼ばれている。
美貌と聡明さを持ち合わせた平滋子は、父・平兵部権大輔時信の死後、やがて後白河院の目に留まり寵愛を受けるようになった。
そして、1161年、20歳のときに後白河天皇の第7皇子・憲仁(のりひと)<のちの高倉天皇> が誕生している。
しかし、後白河院と二条天皇の対立により平時忠と平教盛が二条天皇から解官された他、身分の低さから平滋子もなかなか女御としては認められずにいたが、1165年に二条帝が崩御。
1166年、平滋子が産んでいた憲仁が、六条天皇の皇太子(次の天皇)とされる。
1167年、平滋子は女御となり、家司・職事に平教盛・平宗盛・平知盛・平信範ら平氏一門が任じられている。
1168年、わずか8歳で高倉天皇が擁立され、平滋子は皇太后になり、政務は後白河法皇が院政を敷いた。
そして、1169年、女院に立てられ「建春門院」の院号を宣下された。

1176年6月、後白河院と建春門院が有馬温泉から戻ると、平滋子(建春門院)は突然の病に倒れた。
病名は二禁(にきみ・腫れ物)とある。
院号・封戸・年官年爵などを辞退して仏教に帰依し受戒するも、1176年7月8日に平滋子(建春門院)は死去。享年35。

建春門院の死去により、後白河院と平氏の関係は悪化して行くことになった。
1179年11月、平清盛は軍勢を率いて京都を制圧して後白河院政を停止する。(治承三年の政変)
その後、源頼朝により平氏は滅亡したが、平滋子の産んだ高倉天皇の系統によって平氏の血は受け継がれている。





2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、建春門院を俳優・女優の一木香乃さんが演じられる。

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