安徳帝・安徳天皇(6歳)の簡潔ちょこっと解説~壇ノ浦の戦いで崩御した最年少天皇?




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目次 contents
  1. 安徳天皇・安徳帝とは

安徳天皇・安徳帝とは

安徳天皇(あんとくてんのう) は、平安時代末期の第81代天皇。
父は高倉天皇で第一皇子として1178年12月22日に生まれた。
母は平清盛の娘・平徳子(建礼門院)。
高倉天皇は後白河院と平家の圧力に悩まされ続け、1180年2月、まだ満1歳4ヶ月の乳幼児である安徳天皇に譲位し、太上天皇となり院政を開始した。
<注釈> 院政(いんせい)と言うのは、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となって、天皇の代わり政治を行う事。





平清盛は福原京(神戸)の建設を開始して遷都も行われた。
1180年6月には以仁王が挙兵し、8月には源頼朝も挙兵し、10月には富士川の戦いで平氏は大敗を喫する。
全国で反乱となり、平家は福原から京都に都を戻す。
そして、安徳天皇の即位から、約1年後の1181年1月30日、高倉院(高倉天皇)は病で崩御。(21歳没)
また、1181年3月20日には平清盛も死去した。享年63。
平氏の棟梁には平宗盛が就任し、後白河法皇に恭順する姿勢を示しも、平氏は追いつめられていった。

1183年6月2日、木曽義仲の軍勢を迎え撃った倶利伽羅峠の戦いで平氏勢が壊滅。
その勢いで源義仲(木曽義仲)が入京すると、平氏は京を維持できず、安徳天皇は平宗盛ら平家一門や「三種の神器」とともに都落ちして西国へと逃れた。
その間に、京では三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が即位し、約2年間、天皇が2人存在する事態となった。(日本初と考えられる)

安徳天皇は九州の大宰府を経て、高松の屋島に行くと見晴らしの良い高台に行宮を置いている。
安徳天皇と女官らは屋島で約2年過ごした。
1185年2月、源範頼・源義経らの鎌倉勢に屋島の戦いで敗れると、安徳天皇ら平氏は瀬戸内海を西へと舟で逃れ宇佐神宮に滞在した。
しかし、宇佐神宮も焼き討ちされ九州を離れた平氏は彦島に孤立。
そして、1185年4月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。
この時、安徳天皇は按察使局・伊勢(または二位尼・平時子)に抱かれて船の上から海に入水したとされ崩御した。(満6歳4ヶ月)※歴代天皇では最年少の死。
三種神器のうち宝剣がともに海中に没している。(神璽と神鏡は源氏軍が確保したとされる。)

歴代の天皇のとしては最も短命になった天皇であり、戦乱で命を落としたことが判明している唯一の天皇となった。
安徳天皇の墓所は阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)で宮内庁管理。
なお、安徳天皇は平氏の残党に警護されて、生存していたと言う伝説が全国各地に残っている。
例えば下記など・・。

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安徳天皇の母・平徳子(平清盛の娘)も、平家一門とともに海に飛び込んだが、渡辺昵に救助されたとされ、平宗盛・平時忠らと都に護送されると出家して直如覚尼と号した。





また現在日本各地にある「水天宮」(すいてんぐう)では、安徳天皇、建礼門院・平徳子、二位の尼・平時子を祀るなど、水と子供の守り神とされている。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、安徳帝を子役俳優の伊藤光之丞さんが演じられる。

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