平維盛とは~1分でわかりやすいちょこっと解説「平氏の棟梁を約束された小松中将」




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目次 contents
  1. 平維盛の解説

平維盛の解説

平維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の武将で、誕生年は1159年
父は平重盛、母は平時信の娘・坊門殿?の可能性がある内裏女官で嫡男として生まれた。
この父・平重盛は平清盛の嫡男であるため、平氏の棟梁になるべく蔵人頭、右近衛権中将、従三位と出世している。
後白河法皇50歳の祝賀では、烏帽子に桜の枝や梅の枝をかざして青海波(せいがいは)を舞うと称賛されたことから、桜梅少将(おうばい-しょうしょう)とも呼ばれている。
光源氏にたとえられたほど容姿も端麗だったようで、正室は新大納言局(藤原成親の次女)、妾は建春門院新中納言(平親宗の娘)と、藤原光忠の娘などがおり、子には平高清、夜叉御前などがいる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の濱正悟さんが平維盛を演じられる予定です。





1180年、鎌倉に入った源頼朝に対して追討の総大将となるも出陣が遅れたている
そして、富士川の戦いとなるが、水鳥の羽音に驚いて平氏は敗走しており責任を問わる。
平清盛は、逃げ戻って来た平維盛が京に入ることを禁じた。
1181年閏2月、平清盛が病没。

1183年5月に、木曽義仲追討のため北陸に出陣するも、越中・礪波山(となみやま)付近のむ倶利伽羅峠の戦いでは奇襲を受けて大敗。
これにより、平家一門は都落ちして西へ向かう事になった。
1184年2月、一ノ谷の戦いの頃、平維盛は密かに陣中から逃亡しておりその後の生死などは諸説ある。

平家物語では熊野に逃れたあと那智で入水と伝わり、紀伊・勝山城の近くには平維盛の墓もある。
源平盛衰記では、熊野に参詣したあと法王の許可を得て鎌倉の源頼朝を頼る途中、相模の湯下宿で病死したとある。
<注釈> 湯下宿の場所は不明だが、箱根湯本のことか?
その他、秋田や富士宮などにも伝承がある。





下記は、静岡・富士宮にある平維盛の墓。(西山本門寺の案内板より)

平維盛の墓

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