丹後局の解説【鎌倉殿の13人】高階栄子~後白河法皇の寵愛を受け政治を行う




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目次 contents
  1. 丹後局とは

丹後局とは

丹後局 (たんごのつぼね)は、平安時代末期の女性で、本名は高階栄子(たかしな の えいし)と言います。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、女優・鈴木京香さんが、この「丹後局」を演じられます。
高階栄子と呼ばれていたのは、結婚前までの名前と言う事になります。
諸説ありますが、父は、法印・澄雲または上座・章尋ともされ、母は建春門院の乳母を務めた平正盛の娘・平政子(若狭局)ともされます。

丹後局(高階栄子)

若狭局に養育された、建春門院(けんしゅんもんいん)は、のち第77代天皇・後白河天皇の女御となり、80代・高倉天皇を産んでいます。
そのような縁があったため、高階栄子は、後白河法皇の側近(北面)である平業房の妻になりました。
平業房(たいら の なりふさ)は、伊勢平氏である平盛房の子で、1175年頃、相模守になっていますが下級貴族と言えます。
なお、高階栄子(丹後局)は、平業兼、山科教成(藤原教成)ら5人の子を儲けました。
しかし、1179年、平清盛が京都を制圧して、後白河院政を停止した「治承三年の政変」にて、後白河法皇と密接な者は解任されました。
このとき、平業房も伊豆に流罪となりますが、脱走したため、捉えられて処刑となりました。





後家となった高階栄子は、鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に仕えると、寵愛を受けるようになり、晩年の寵妃として丹後局と称しました。
<注釈> 後白河院には、たくさん子供がいますが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局の2人とされます。
1181年10月、丹後局は、皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)を産んでいます。

平清盛が亡くなると、後白河法皇の寵愛と信任を得た丹後の局は、政治にも関与するようになります。

特に、1183年7月、源義仲・源義経らの攻撃にて、平氏が安徳天皇を奉じて都落ちすると、白河法皇は安徳天皇を廃します。
このとき、後鳥羽天皇を後継にするよう、進言したのが丹後局ともされます。





平氏が滅亡すると、鎌倉幕府を開いた源頼朝と交渉窓口にもなっており、丹後局は、鎌倉から上洛した大江広元らと、いくども交渉を担当しました。
文治3年(1187年)、丹後局は従三位。
建久2年(1191年)、娘の覲子内親王が、格上げして「宣陽門院」になると、丹後局は従二位になりました。
<注釈> 門院は普通の内親王と違い、役所と財産権が与えられる地位で、通常は天皇を産んだ女性しかなれない。

1192年、後白河法皇が崩御すると、丹後局も出家し、遺言により山科に所領を与えられました。
なお、同じく遺言により長講堂領を与えられた娘の宣陽門院と共に、広大な荘園の経済力を背景に引き続き政界にて活躍しています。
<注釈> 長講堂領(ちょうこうどうりょう)とはは、六条長講堂に付属する全国80箇所の荘園所領の総称で、のち南北朝時代には、持明院統の経済的基礎となりました。

朝廷においては、源頼朝の信任を得た九条兼実が権勢を誇って政敵となり、土御門通親や丹後局らは対立しました。
源頼朝が、大姫を後鳥羽天皇に入内させようと画策すると、源通親らと結び「建久七年の政変」となって、土御門通親と共に、関白・九条兼実を失脚させています。





その後、後鳥羽天皇に代わり、丹後局と土御門通親が権力を得ました。
しかし、建仁2年(1202年)土御門通親が死去し、後鳥羽上皇が本格的に院政を開始したため、丹後局は権力を失いました。
そのため、丹後の局は、亡き夫・平業房の所領があった浄土寺に移り住んだため「浄土寺二位」と称されています。
丹後局の没年は不詳ですが、建保4年(1216年)2月頃と考えられます。

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