土御門通親(源通親)【鎌倉殿の13人】要点ちょこっと解説~朝廷の政治家として権力を強める




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目次 contents
  1. 土御門通親とは

土御門通親とは

土御門通親 (つちみかど – みちちか)は、鎌倉時代初期にかけての公卿。
平安時代末期の1149年に、公卿・歌人で村上源氏の嫡流でもある源雅通の子として生まれた。
そのため、土御門通親は、源通親(みなもと の みちちか)とも言う。
母は、妾であった藤原長信の娘(美福門院女房・八条院女房)、藤原行兼の娘とも。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の関智一さんが土御門通親を演じられる。

1158年、土御門通親(源通親)は、わずか10歳で従五位下。
大納言・花山院忠雅の娘(藤原忠雅の娘)を妻とすると、藤原忠雅の出世に伴って土御門通親(源通親)も出世する。
しかし、平氏が存在感を強めると、今度は平教盛の娘を娶り、平氏の後ろ盾を得て政界に進出を果たした。
1168年頃からは高倉天皇の側近として仕えている。





1179年、蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役を果たし、やがて参議に昇進したが、平清盛が死去して後白河法皇が院政を再開。
土御門通親(源通親)は積極的に発言を行うなどして、要領よく立ち回り存在を高めている。
1185年、権中納言に昇進。
そして、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
その頃、後鳥羽天皇の乳母を務めていた高倉範子(藤原範子、藤原範兼の娘)を正室として、後白河法皇の側についた。
後鳥羽法皇との間に覲子内親王を産んでいた丹後局(高階栄子)とも結びつきを強めている。
また、丹後局を通して、源頼朝の娘・大姫の入内を利用し、源頼朝と手を結んでいた後鳥羽天皇の後見で関白・九条兼実の失脚を狙った。

1195年、土御門通親(源通親)は権大納言に昇進。
高倉範子(藤原範子)が、以前の夫・能円との間に設けていた女子・在子が、後鳥羽天皇の寵愛を受けた。
そして、1196年、皇子・為仁親王を生むと、九条兼実を追放している。
この為仁親王は後鳥羽天皇からの親王宣下がないまま、1198年に僅か3歳で土御門天皇として即位したが、鎌倉幕府などの反対を押し切って土御門通親(源通親)が無理に通した。
こうして、天皇の外祖父となった土御門通親は朝政を掌握し権勢を振るった。

1199年、源頼朝が死去した際の出来事。
土御門通親は自らの右近衛大将就任と、源頼家の左近衛中将への昇進が計画されていたが、源頼朝の死を受けて、延期にするしかないと言う状況となった。
そのため、土御門通親は源頼朝の死を知らなかったことにし昇進の手続きを急ぎ行い、翌日、弔意を表して閉門すると言う強行を行っている。

ただし、後鳥羽上皇の意向を無視することもできなくなり、晩年は影を潜めてた。





1202年、九条兼実が出家し、土御門通親は急死。

その後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まると藤原兼子と藤原範光が天皇側近として発言権を強めた。

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