平盛綱のわかりやすい解説~北条家の御内人として活躍する長崎氏の祖




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目次 contents
  1. 平盛綱とは

平盛綱とは

平盛綱(たいら の もりつな)は鎌倉時代の武将。
出自だが尊卑分脉によると、平清盛の孫にあたる平資盛の子。
系図纂要では、平資盛の曾孫(平資盛 → 平盛国 → 平国房 → 平盛綱)となっており、兄弟に関実忠がいる。
しかし、出自は不明といったところか?
ただし、はじめ平氏を称しているので、平氏一族の出だとは推測できる。

ちなみに、平資盛は安徳天皇とともに薩摩に脱出したという説もあり、奄美大島にも伝承がある。

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ともあれ、どのような経緯があったのか?はわからないが、平盛綱は北条義時の家司となった。

<注釈> 家司(いえのつかさ) と言うのは、家政・雑務を担う者を言い、今で言うと「執事」に近い仕事になるか?、御家人にはならないので身分的には低い。

平盛綱(平三郎左衛門尉)は執権・北条氏の忠実な部下として、鎌倉幕府では侍所の所司も務めた。

<注釈> 侍所所司とは侍所の次官(定員4名)で、別当(トップ)を補佐した。梶原景時も侍所所司だった。

1221年、承久の乱では、北条泰時が18騎を従え出立したうちのひとりになっている。

そして第2代執権・北条義時の死去後に発生した1224年からの伊賀氏の変では北条泰時を助けて鎮圧し実務能力を発揮した。

安芸で乱が発生すると、安芸国巡検使に赴き、3代執権・北条泰時に報告もしている。
また、北条泰時の命にて、北条家の家法も作成したと言うので、諸事にも詳しかったようだ。

1228年には、子の平盛時(たいら の もりとき)が、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経に進上する馬を引く役目を担っている。

1232年、日本を統治するために日本初の武家政権の法令「御成敗式目」を制定する際には奉行(指揮者)を務めた。

1234年、尾藤景綱に変わって、執権・北条氏(北条氏得宗家)の家令の地位に就任し、御内人の頂点に立った。

<注釈> 御内人(みうちびと)とは、北条氏の直属の家人で膨大な所領を管理した。

領地は北条荘からも近い、伊豆国田方郡長崎郷(静岡県伊豆の国市)であり、子孫はやがて「長崎氏」を称する。

北条時頼の時期まで安堵状などの奉者・使者をつとめたが、平盛綱は1242年に出家して隠退。
1242年は、北条泰時が亡くなった年でもあるため、その死を受けて隠居した可能性もある。
その後、没年は不明だが死去。法名盛阿。





侍所所司は、前述した子の平盛時が継いだようで、のち内管領となり権勢を振るった。

長崎氏は、その後も御内人の筆頭、内管領として権力を強め北条家における財政・行政・司法を掌握。
御家人から取り上げた北条氏の所領を管理する立場から財力もあり、やがて北条得宗家よりも鎌倉幕府における強大な実権を握って世襲した。
鎌倉末期の長崎円喜と子の長崎高資の権力に対し、足利尊氏新田義貞らが倒幕を行う。

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