九条兼実のちょこっと解説~玉葉を書いた鎌倉幕府に近い公卿(鎌倉殿の13人)




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目次 contents
  1. 九条兼実とは
  2. 玉葉とは

九条兼実とは

九条兼実(くじょう-かねざね)は、平安時代末期の公卿で、摂政・藤原忠通の6男として1149年に生まれた。
母は摂関家の女房だった藤原仲光の娘・加賀局。
この母の身分は低かったようで、異母姉・皇嘉門院の猶子となると1158年には兄・近衛基実の猶子の資格にて元服し正五位下・左近衛権中将になった。
なお、父より京都・九条の地にあった屋敷「九条殿」を譲られたことから九条を家名としている。
兄・近衛基実(このえもとざね)、松殿基房(まつどのもとふさ)と共に政治家としての道を選んでおり、1160年には従三位へと出世し公卿に列している。
内大臣を経て1166年に18歳で右大臣、1186年、摂政(せっしょう)になると1191年から1196年まで関白を務めた。
これらの経歴からも摂関家の優秀な人物であったことが伺える。
妻は藤原季行の娘・藤原兼子。





藤原鎌足(中臣鎌足)より続く藤原一族の男系血統上の宗家にあたるのが九条家となる。
しかし、摂関家の内紛となった1156年の保元の乱にて衰退したほか、平清盛が実権を握っており、九条兼実は約20年間も右大臣の座に留まっている。
<注釈> 五摂家の中で初めて藤氏長者をつとめたのは、兄・近衛基実の近衛流となり、子の近衛基通は後白河法皇の側近として叔父・九条兼実に対抗した。

1179年11月、平清盛が後白河法皇を幽閉して、兄である関白・松殿基房(藤原基房)を追放する。(治承三年の政変)
しかし、新関白の近衛基通は公事に不慣れだったため、九条兼実の嫡男・九条良通を権中納言・右大将にした。
これは、父である九条兼実が持つ公事・作法の高い知識を期待してのことだろうが、九条兼実はあまり朝廷に出仕しない行動をとっていたため、このようなややこっしい人事であった可能性もある。

1181年、平清盛が亡くなり、後白河法皇が院政を再開するが、それでも九条兼実は朝廷の仕事をほとんど行わなかったようだ。
そして、平氏滅亡とともに源頼朝の援助を得た九条兼実はようやく念願を達成し、政務に邁進した。
摂政、氏長者、太政大臣、そして関白となり、後白河法皇が没すると源頼朝の征夷大将軍宣下(せんげ)を取り計らった。
また、娘・九条任子を入内させて、後鳥羽天皇の中宮にしている。
<注釈> 以後の摂関職は近衛流と九条流から出ている。

一方で、鎌倉幕府の中原広元(大江広元)が土御門通親の推挙によって、慣例を破り明法博士・左衛門大尉に任じらるなど、土御門通親 (源通親)は策謀を巡らす。
後鳥羽天皇との対立も深刻となり、1196年11月、九条兼実は関白を罷免され、中宮任子は宮中を退いた。
更には、九条兼実の弟・慈円は天台座主の地位を追われるなど、九条家は失脚していく。
1202年、法然に帰依して出家すると法性寺に住み、政界に復帰することは無かった。
1207年に九条兼実は死去。享年59。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ココリコの田中直樹さんが九条兼実を演じられる。





五摂家のひとつ「九条家」の祖となった九条兼実が40年間書いた日記「玉葉」(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の朝廷を知る第一級史料となっている。
<注釈> 五摂家の二条家・一条家は九条家の庶流。

九条兼実の孫・九条道家は、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父であり、相次いで鎌倉幕府の摂家将軍となったことにより、九条家は朝廷内で権勢を誇った。

玉葉とは

前述したとおり玉葉(ぎょくよう)は、九条兼実の日記で、16歳から55歳まで(1164年~1203年まで)記載された全66巻。
朝儀や政界の実情などが詳細に記述されているほか、九条兼実の論評が加えられている。
源平争乱や鎌倉幕府成立期の政情を知る上での第1等史料であり、朝廷側の記述がきわめて詳細。
九条兼実の孫・九条道家の没後に、元本が一条家に伝えられた。

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