慈円のわかりやい解説~摂関家生まれの名僧で愚管抄の著者(鎌倉殿13人)




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目次 contents
  1. 慈円とは

慈円とは

慈円(じえん)は鎌倉時代初期の名僧で比叡山延暦寺・天台宗の僧侶
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では名僧・慈円を俳優の山寺宏一さんが演じられる。

慈円は平安時代末期の1155年に摂政関白・藤原忠通の子として生まれた。
母は家女房(側室)となる太皇太后宮大進・藤原仲光の娘である加賀局。
同じ母が産んだ兄に、摂政・関白・太政大臣となった九条兼実のほか、太政大臣となった藤原兼房がいる。
慈円は家督を継げる立場ではなく、2歳で母を失い幼い頃から京都・青蓮院に入って僧侶となった。
1165年、11歳のとき延暦寺に入り、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の覚快(かくかい)法親王の弟子になった。
1167年には、天台座主・明雲を戒師として受戒・出家し、道快(どうかい)と称し密教を学んでいる。
1176年には比叡山・無動寺で千日入堂を果している。





家柄が良いため僧侶の中でも出世して行き、1178年、法性寺の座主となった。
<注釈> 京都・法性寺は、1162年に父・藤原忠通が出家した藤原氏の寺となる。(父は10歳の時死去)

1180年、もめ事があったようで籠居(家の中に閉じこもる事)しようとしたが兄・九条兼実の説得を受けて思いとどまっている。
1181年、慈円と改名し、のちに浄土真宗をひらく親鸞(9歳)が慈円から得度(とくど)している。

平氏が滅亡し、兄・九条兼実が後鳥羽天皇の摂政となると、1182年、鳥羽天皇の祈願所として格式高くなっていた青蓮院の門主となった。
その青蓮院・門主就任に際しては、前門主が鳥羽上皇・第7皇子の覚快法親王(延暦寺・天台座主と兼任)であったため、九条兼実が圧力をかけて一波乱が起きていた。
しかし、覚快法親王(かくかいほっしんのう) が1181年に死去したため、空白となっていた門主を継いだと言う形になっている。

1190年、九条兼実の娘・九条任子が後鳥羽天皇に入内。

そして、1192年、源頼朝が征夷大将軍に任じられた年、慈円(慈鎮和尚)は僅か38歳で比叡山・延暦寺の62代・天台座主(てんだいざす)となった。
源頼朝とも意気投合している。
ただし、山上はやはり不便であり、天台座主であっても本人が比叡山に住むと言う事はあまりないので付け加えておく。

1193年、九条兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居。
東山の吉水(よしみず)の地にある祈祷道場・大懺法院(だいせんほういん)に住んだので、吉水僧正(そうじょう)とも呼ばれた。

なお、天台座主を辞めても、65代・69代・71代と合計4回座主となって法会や伽藍の整備を行った。
当時の日本において4回も仏教界の最高位となったのには、それだけ優秀で力量・人望もあったのには間違いないだろう。





1202年頃、慈円は「愚管抄」(ぐかんしょう)と言う史論書を執筆。
重要な歴史書として今でも研究に使われている。
愚管とは私見の謙譲語。

また、平家の栄華と没落を記した「平家物語」(作者不明)が著作された背景には慈円の保護があったとも伝えられている。
ちなみに、九条兼実は日記「玉葉」を残した。

1207年、兄・九条兼実が死去すると、慈円は九条家の後見役にもなった。

1225年、病のため比叡山の麓・坂本にて病没。





慈円は歌にも秀でており家集「拾玉集」(しゅうぎょくしゅう)には6000首読まれている。
また「新古今和歌集」では、西行の94首に次ぐ92首を入集されており「百人一首」にも慈円の一首が収められている。

おほけなくうき世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖 (九十五 前大僧正慈円)

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