陳和卿をわかりやすく解説してみた【鎌倉殿の13人】




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目次 contents
  1. 陳和卿とは

陳和卿とは

陳和卿【ちんなけい】は平安時代末期の中国・宋(そう)から日本に来た工人で生没年などはは不明。
1180年、平重衡による兵戦火で、奈良の東大寺・興福寺が焼失。
そして、奈良・東大寺を再建する際の最高責任者である勧進上人・俊乗房重源(ちょうげん)に、技術者として抜擢されたのが陳和卿という事になる。
<注釈> 重源は宋に3度留学した経験がある。
陳和卿は、焼損していた大仏の鋳造と、東大寺・大仏殿の建て直しに尽力した。





NHK2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、陳和卿を俳優のテイ龍進さんが演じられると発表があった。
テイ龍進(テイりゅうしん)さんは日本生まれの華僑で数々のドラマ・映画にご出演なさっている。
1185年頃には大仏が完成し、大仏開眼の儀式では後白河法皇が大仏の目を描いたとさけている。
ちなみに、東大寺南大門の両脇に立つ金剛力士像は、運慶と快慶の作。
1195年、東大寺・大仏殿の工事が終わると、式典の際に源頼朝から面会を申し入れられた。
しかし、陳和卿は「平家との戦いで多くの人命を奪っており、罪業の深い人間とは面会したくない」と拒否していることから平氏が日本に招いたとも?考えられる。

ただし、源頼朝は奥州合戦にて使用した甲冑・鞍、馬3頭と金銀を陳和卿に贈っている。
でも、陳和卿は鞍は寺に寄進するために受け取ったが、甲冑は溶かして造営の釘に変え、その他の物は不要だと源頼朝に返したと言うので面白い。

東大寺再建の功績を認められて播磨国大部荘などを重源から譲られると東大寺に寄進した。
そして、寄進した所領の管理者となったようだが、色々と問題を起こしたとされ重源と決別し、1206年、後鳥羽上皇からも追放された。

1216年、鎌倉に赴くと、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝に拝謁。
渡宋を思い立った源実朝の信任を得て大船の建造を始めている。





1217年、完成した船を、鎌倉・由比ヶ浜にて進水させたが、海に浮かばず砂浜で破損させたようだ。
この失敗のあと、消息などはわかっていない。

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