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平賀朝雅とは
平賀朝雅(ひらが ともまさ)は鎌倉時代初期の武将で、1182年、源氏一門である平賀義信の次男として生まれた。
母は、比企尼の3娘だが、最初、伊東荘の伊東祐清に嫁いでいたので再嫁したと言う事になる。
平賀氏は、信濃・佐久郡平賀郷が本貫であり、木曾義仲と源頼朝が対立した際には、木曽義仲の依田城を落とすなど鎌倉勢として活躍した。
そのため、源頼朝からの信頼も厚く、1184年に、兄・平賀惟義(大内惟義)が伊賀国守護となり、源頼朝の側近として働いた。
平賀朝雅は、そんな兄・大内惟義を補佐していたと考えられ、妻には北条時政の娘(名前不詳)を迎えた。
この北条式政の娘は、牧の方が産んだ女子と推測される。
なお、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の山中崇さんが平賀朝雅を演じられる。
また、平賀朝雅の妻(北条時政と牧の方の娘)は「きく」と言う役名で俳優(女優)の八木莉可子さんが演じられる。
1193年、曾我兄弟の仇討ちでは、平賀朝雅の母(比企尼の3娘)の連れ子であった河津祐泰の遺児・律師が、連座となり甘縄にて自刃した。
1199年、源頼朝が死去し、鎌倉幕府2代将軍に源頼家が就任。
13人の合議制が敷かれた。
1200年、梶原景時が粛清されている。
1202年、母・比企尼の三女が死去すると、将軍・源頼家と北条政子は比企尼三女の冥福を祈るため、鎌倉・永福寺(二階堂)にて多宝塔供養を行った。
1203年9月、比企能員の変では、北条氏とも縁戚関係であったため、平賀氏は判断に苦慮したことだろう。
結果的に平賀朝雅は北条時政の婿である立場を取り、北条氏側として比企氏討伐に加わり貢献した。
その後、平賀朝雅は京都守護に抜擢されている。
伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱が起こると、守護の山内首藤経俊が逃走したため、京から平賀朝雅に鎮圧にあたった。
この功績で平賀朝雅は伊賀国・伊勢国の守護も兼務となり、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に任じられるなど、鎌倉御家人としてはかなりの好待遇となっている。
そして、平賀朝雅は院の殿上人にもなり後鳥羽上皇からも重用され、鎌倉と朝廷・公家との橋渡しも務めた。
1204年、在京中の畠山重保と平賀朝雅は口論となり、牧の方(大河ドラマ・鎌倉殿の13人では「りく」)に畠山重保が悪いと讒言(ざんげん)する。
そのため、牧の方は夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると伝えた。
それがキッカケで、1205年、畠山重忠と畠山重保の父子が謀反の疑いで討伐されることになった。(畠山重忠の乱)
裏では、武蔵国司にもなっていた平賀朝雅と、鎌倉幕府の実権を握っていた北条時政にとって、武蔵武士団の最大勢力である畠山重忠が目ざわりだったと言う側面もある。
ただし、北条義時と北条時房は畠山討伐に反対するも押し切られ「二俣川の戦い」に出陣して勝利。
稲毛重成も討たれ、その後、北条時政と北条義時・北条政子の対立が決定的になった。
そして、1205年、源実朝を廃して平賀朝雅を新たな鎌倉殿に擁立しようとした北条時政が失脚する牧氏事件が発生。
陰謀が発覚すると出家した北条時政と牧の方は伊豆荘に追放。
また、北条政子・北条義時の命をうけた山内首藤通基が京都派遣された。
そして、京都守護の平賀朝雅の屋敷は襲撃され・殺害されたと言う事になる。享年24とも。
なお、兄・大内惟義は連座せず、平賀朝雅の所領である伊勢国・伊賀国の守護を継いでいる。
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