3分でわかりやすく解説【山内首藤経俊】母・山内尼に助けられた山内氏

目次 contents
  1. 山内首藤経俊とは

山内首藤経俊とは

山内首藤経俊(やまのうちすどう-つねとし)は、平安時代末期の武将で、山内首藤俊通の3男として、1137年に生まれた。
母は山内尼とされるが、摩々局(ままのつぼね)と言う早河庄(小田原)・中村氏の女性も山内家におり、山内尼と摩々局は、同一の女性とも考えられる。
もともと、先祖に藤原秀郷または藤原師尹をもつ藤原氏の庶流で、主馬首となった藤原資清が首藤資清と称するようになり、首藤氏となった。
その後、相模国・鎌倉郡山内荘(北鎌倉から戸塚区・栄区)を領し、山内首藤氏と呼ばれている。

山内首藤経俊

父・山内首藤俊通は、河内源氏の家人として京にいたようで、母・山内尼(やまのうちのあま)は、源頼朝の乳母を務めていた。
その父・山内首藤俊通と長兄・山内首藤俊綱は、1159年の平治の乱で、源義朝の軍勢として奮戦するも敗れて、同族の蒲田正清と同じく討死・処刑されている。
次兄・山内首藤俊秀も、1180年、以仁王の挙兵に従ったが、宇治橋の戦いに敗れて討死した。
こうして、生き残っていた、山内首藤経俊が当主となったが、源頼朝が挙兵する際、安達盛長が使者となって、波多野義常と山内首藤経俊に加勢を交渉したが、暴言を吐いて拒否し、平清盛に味方したと言う。
そのため、石橋山の戦いにて、大庭景親平氏勢に、山内首藤経俊の名が見える。
また、山内首藤経俊が放った矢が、源頼朝の甲冑(鎧の袖)に刺さったとされる。
房総に逃れた源頼朝が鎌倉に入ると、大庭景親は、従う者がいなくなり降伏した。
山内首藤経俊も捕らえられて土肥実平に預けられ、鎌倉の山内荘は没収されている。
<注釈> 土肥実平も、摩々局(山内尼?)と同じ中村氏(中村党)の出身。



母・山内尼は、涙ながらに父祖・山内資通入道が源義家に仕え、また、源為義の乳母父であった事など、貢献度を主張して山内首藤経俊の助命を求めたとされる。
これに対し、源頼朝は、矢が刺さった鎧の袖を見せたため、山内尼は、それ以上、言い返せなかったと言う。
ただし、源頼朝は、老母の哀訴と先祖の勲功に免じて、山内首藤経俊を許した。
以後、1184年には、伊勢で志太義広を討ち、源義経の追討では伊勢義盛を鈴鹿山で破ったほか、奥州征伐など活躍し、伊勢守護・伊賀守護を任じられた。

源頼朝の死後、1199年の梶原景時の変では、梶原景時追放を求めて連判状(66名)に、山内首藤経俊の名がある。
1204年、伊勢・伊賀にて平盛時らが蜂起すると、山内首藤経俊は反乱鎮圧に失敗し、守護所から逃亡したため、守護職は罷免となった。
その後、乱を鎮圧した平賀朝雅が、伊勢守護・伊賀守護となっている。

1205年、伊勢守護・伊賀守護・京都守護になった平賀朝雅(ひらが ともまさ)は、北条時政・牧の方と共に、鎌倉幕府3代将軍・源実朝を廃しようと企て、北条時政が失脚。(牧氏事件)
鎌倉幕府の実権を握った北条義時は、山内首藤経俊の子・山内首藤通基に命じて、平賀朝雅を殺害させた。

1221年(承久3年)、山内首藤氏は、蓮華王院領の備後国地毗庄(広島県庄原市)の地頭を任じられた。
のち、鎌倉時代後期に、山内氏は備後に移り、戦国時代には、備後・甲山城主として山内直通や山内隆通が知られる。

山内首藤経俊は、1225年に死去。享年89。



戦国時代には、一族とされる山内一豊が、織田信長の元、活躍し、高知城の土佐藩主になっている。

なお、鎌倉時代末期には、上杉憲顕(うえすぎ のりあき)が、鎌倉・山内荘に屋敷を構え、山内上杉氏となり、戦国時代に上杉謙信がいるが、山内首藤氏の系統とは異なる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山内首藤経俊を、俳優の山口馬木也さんが演じられる。

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