梶原景時のちょこっと解説~鎌倉幕府では何をした武将?

目次 contents
  1. 梶原景時
  2. 梶原景時像

梶原景時

梶原景時 (かじわら かげとき) は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で、桓武平氏良文流鎌倉氏の一族・梶原氏の当主です。
生まれは1140年頃と考えられ、神奈川県大船の付近に領地を得ていました。

梶原景時

父は梶原景清で、母は横山党・小野孝兼の娘(横山孝兼の娘)で、1162年に嫡男・梶原景季が生まれています。
1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵した際には、同じ鎌倉党の大庭景親が、平家側の討伐軍大将となったため、源頼朝の敵として石橋山の戦いに参じました。
敗走した源頼朝をはじめ、土肥実平岡崎義実安達盛長らが、土肥の椙山(すぎやま)の山中に逃げ込むと、梶原景時と飯田家義が、ししどの窟に隠れている源頼朝らを察知します。
しかし、梶原景時は、見つからないと報告したため、源頼朝は窮状を救われて、その後、箱根権現によったあと、真鶴半島から安房(千葉)へ逃れることが出来ました。
鎌倉に入った源頼朝は、富士川の戦いで、平維盛らの平氏を撃破し、捕まった大庭景親は処断されています。
その後、梶原景時は土肥実平の仲介にて、源頼朝に降伏すると、ししどの窟での対応を評価され、鎌倉幕府の御家人に列することになりました。



源頼朝から信頼された梶原景時は、鶴岡八幡宮の造営、北条政子の出産の奉行など、重要な任務を与えられたほか、侍所所司も任じられています。
また、梶原景時と子の梶原景季は、宇治川の戦いなどでも武功を上げています。
教養もあり、事務能力にも優れた、官僚的な武将だったようで、梶原景時は、土肥実平とともに、播磨国・備前国・美作国・備中国・備後国の守護に任じられました。
平家討伐の際には、源義経と対立したようで、結果的に、源義経も鎌倉に入れず、京を経て、奥州・藤原秀衡のもとへ逃れることになりました。
また、謀反を疑われた畠山重忠が、二俣川の戦いで静粛された際にも、梶原景時が源頼朝に諫言したとされ、のち和田義盛からも侍所別当の職を奪い、鎌倉幕府における御家人の中心として敏腕を振るいました。

1199年に、源頼朝が死去すると、梶原景時は鎌倉幕府2代将軍・源頼家からも信頼されました。
また、十三人の合議制が敷かれると、梶原景時も列しています。
しかし、梶原景時は、多くの御家人から、ひどく恨まれており、結城朝光も、落しいれようとすると、三浦義村、和田義盛ら諸将66名により、梶原景時の排斥を求める連判状が提出されました。
源頼家は、頼りにしていた梶原景時を、助けることができず、梶原景時は、一族とともに鎌倉を離れて、所領のひとつの相模国一ノ宮「梶原景時館」に退きました。



1200年1月、梶原景時らは、更に、京を目指しましたが、その途中、駿河国清見関(きよみがせき)にて吉香友兼らと戦闘になります。
嫡子・梶原景季、次男・梶原景高、3男・梶原景茂が討たれたほか、梶原景時は西奈の山上(梶原山公園)にて自刃しました。(享年60)
梶原一族33人が命を落とし、滅亡しました。

梶原景時像

梶原景時像は、山梨県南都留郡富士河口湖町船津にある河口湖の湖畔にあります。

梶原景時像

なんで、河口湖に、梶原景時の像があるのか?、とても疑問に感じましたが、下記のような理由があるとの事です。

1194年、梶原景時と加藤景廉が、甲斐国東郡の領主・安田義定を攻略します。
その戦功により、甲斐国東郡は加藤景廉に与えられました。
しかし、実際に、奉行として派遣されたのは、梶原景時の8男・梶原景則だったようで、甲斐国に梶原氏が土着するようになったそうです。
特に、富士河口湖町には730世帯あるそうなのですが、梶原さんと言う世帯だけでも約240世帯と、山梨県の中でも、梶原さん率が高いそうでして、河口湖畔に、梶原景時の像が設置されるに至った模様です。

梶原景時像

梶原景時像がある場所は、当方のオリジナル関東地図にて、ポイントしております。
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自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

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