志田義広(源義広)をわかりやすく解説【鎌倉殿の13人】源為義の3男で木曽義仲に合流する




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目次 contents
  1. 志田義広(源義広)とは

志田義広(源義広)とは

志田義広(源義広)(しだ-よしひろ)は、平安時代末期の武将で河内源氏5代・源為義の3男として生まれたが生年は不詳。
母は六条重俊の娘。
兄に源義朝源義賢、弟らに源頼賢、源頼仲、源為宗、源為成、源為朝、源為仲、源行家らがいる。

同じ平安時代末期には、源義時の4男・紺戸義広も源義広であり、また源義隆の長男・毛利義広も源義広であることから、通称として志田三郎先生(志太三郎先生、信太三郎先生)とも呼び区分する。




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志田義広(源義広)は若い時に京では天皇らを警護する武士・帯刀(たてわき)となっており、1151年12月頃、関東の常陸国志田荘(茨城県稲敷市)を開墾して本拠地にした。
志田荘は藤原得子(美福門院)の領地であり、藤原宗子(池禅尼)の子・平頼盛が仲介したものと考えられる。

1153年、長兄・源義朝が父・源為義より出世して下野守になる。
すると、父・源為義は、長男・源義朝の勢力基盤を切り崩すため、次男・源義賢を上野国の多胡に送った。
次兄・源義賢は、武蔵最大勢力である秩父重隆の娘を妻にし、北関東での地盤固めを行っている。
そのため、河内源氏の中では、源為義派と源義朝派の対立が深刻となった。

1155年、源義朝の嫡男・源義平(15歳)が、源義賢の拠点であった武蔵・大蔵館を襲撃し「大蔵合戦」となる。
次兄・源義賢と秩父重隆は討死。
源義賢の遺児は信濃・木曽に逃れて木曾義仲(木曽義仲)となった。

その後、志田義広(源義広)に目立った活動は見られず、信太荘に留まっていたようだ。

1160年、長兄・源義朝は平治の乱で敗走し殺害された。




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1180年、長兄・源義朝の遺児でもある源頼朝が挙兵して鎌倉に武家政権を築く。
この時、志田義広(源義広)は金砂城の戦いのあとに、弟・新宮行家(新宮十郎行家)と共に常陸国府にて源頼朝と面会している。
しかし、亡き源義朝との遺恨からか?、源頼朝との協調路線は取らなかった。

1183年2月20日、鹿島神宮の所領を押領したとされ、源頼朝から咎められると、下野国の足利俊綱・足利忠綱の父子を味方にして、2万の兵にて挙兵。
まずは常陸から下野・野木宮(栃木県下都賀郡野木町)へと進軍して、源頼朝の鎌倉制圧を目指した。
これに対し、源頼朝は下河辺行平・小山朝政を派遣したほか、鎌倉にいた小山朝政の弟・長沼宗政と関政平が援軍として下野国に向かっている。
他には、八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが小山朝政の軍勢に合流したが、関政平は志田義広の陣に加わっている。
こうして、2月23日に野木宮合戦となり、本拠地を捨てて敗走した志田義広は、次兄・源義賢の子である木曾義仲を頼った。
木曽義仲は叔父・志田義広(源義広)を手厚く迎えて、最後まで行動を共にした。
源頼朝から追放された源行家も木曽勢に加わっており、源頼朝と木曽義仲の関係も悪化した。

木曽義仲は、北陸経由で京へと進軍。
源頼朝は、源範頼・源義経らの鎌倉勢を京に送り、1184年正月、宇治川の戦いとなった。
敗れた木曽義仲は粟津の戦いにて討死し、志田義広は伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)に拠ってゲリラ戦を試みた。
しかし、逆賊として追討を受け、波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義の家人らの攻撃にて、1184年5月4日に斬首となったとある。

信太荘や国府を含む常陸南郡の惣地頭職は下河辺行平に与えられ、1193年、曾我兄弟の仇討ちのあと常陸守護には八田知家が任じられている。




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ちなみに、志田義広の子としては志田義延、志田義国、志田頼重がいた。
志田義延は母とともに丹波国に逃れて上村にて蟄居すると、上村姓に改姓している。
その子・上村義安は上杉重房に仕えると、宗尊親王に従って鎌倉に下向し、志駄氏に復している。

のちの世、越後守護・上杉房方が越後へ赴いた際に志駄景秀が従った。
戦国時代には上杉謙信の家臣に志駄春義がおり、武蔵・騎西城主として関東に復帰も果たしている。

3男だった源頼重(志田頼重)は、比志島系図によると、小山田氏が源義広の後裔と称している。
この比志島氏と言うのは、九州は薩摩の鹿児島北部にある比志島城主のことで、その近くの鹿児島の小山田城主が小山田氏になる。

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