八田知家をわかりやすく解説「鎌倉殿の13人」筑波を支配した小田氏の祖




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目次 contents
  1. 八田知家

八田知家

八田知家 (はった-ともいえ)は、平安時代末期の武将で1142年に生まれた。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の市原隼人さんが八田知家を演じられる。

父は宇都宮氏の2代当主・八田宗綱(はった-むねつな)とされ、この時期は常陸・八田(茨城県下館市八田)が本拠。
<注釈> 源義朝の10男が八田知家で、ご落胤であったとする説もある。
母は常陸国大掾である平棟幹の娘(大掾棟幹の娘)の可能性があるが不詳。
姉の寒河尼 / 寒川尼(さむかわのあま)は、小山政光の後妻になると結城朝光を産んだほか、源頼朝の乳母も務めている。
兄・宇都宮朝綱(うつのみや-ともつな)は、大番役で上洛した際に鳥羽院武者所、後白河院北面などを務めていたが、1180年に源頼朝が伊豆で挙兵すると平清盛に拘束された。
富士川の戦いのあと、源頼朝らは上総広常、千葉常胤、三浦義澄などを派遣して金砂城の戦いにて佐竹義政・佐竹秀義を排除。
その前後に、八田知家は下野国茂木郡を安堵されている。
このとき、常陸国信太荘(茨城県稲敷市)の河内源氏・源義広(志田義広) が、常陸国府にて源頼朝と面会するも、源義仲の軍勢に加わり反頼朝となった。





そして1183年、鎌倉を攻撃しようとしたので、源頼朝は小山朝政に討伐を命じた。
この小山氏に味方したのが、八田知家や城井信房などで、源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らと下野国にて野木宮合戦で勝利している。
その後、源義広(志田義広) は木曽義仲に合流して行動した。
この功績で八田知家は筑波山麓の筑波郡を与えられ、常陸・小田城の原型を築いたと考えられる。

1184年、兄・宇都宮朝綱が平家の家人・平貞能の仲介にて関東に帰国。
平氏討伐で、八田宗綱は源範頼の軍勢に加わり活躍。

1185年、源義経が無断任官で源頼朝から怒られた際に、八田知家も朝廷より右衛門尉になっていたため小山朝政と共に叱責されている。

1187年、鶴岡八幡宮での放生会では、源範頼・大内義信・加々美遠光・安田義定・伏見広綱・小山朝政・千葉常胤・三浦義澄・足立遠元らと参列した。

1189年、奥州合戦では兄・宇都宮朝綱や千葉常胤らと参じて武功を挙げた。
また、鶴岡八幡宮の三重塔が完成すると、京都より僧侶・観性が供養のため鎌倉を訪れ、佐々木高綱が案内役となり観性は八田知家の屋敷に宿泊している。
下記の図は鎌倉における八田知家の屋敷があった場所を差すが、重要な場所を与えられていることが分かる。

八田知家の鎌倉屋敷

京から使者が来ると度々、八田知家の屋敷が宿所に当たられていることから、八田知家は京都の文化にも精通していたと考えられる。

1193年、曾我兄弟の仇討ちのあと、従兄弟の常陸大掾氏で常陸・多気山城(多気城)の多気義幹を失墜させる作戦に出る。
北条時政と一緒に多気義幹を罠にはめた。
「八田氏が軍勢を動員して多気氏を討とうとしているようだ」と言う噂を流すと、当然、多気義幹は多気山城の防備を固めてに戦支度を行った。
そこに、八田知家は「富士で仇討が起きたので、源頼朝のもとに一緒に参じよう」と多気義幹を誘った。
しかし、多気義幹は八田知家の誘いには乗らず、この様子を八田知家は「多気義幹は鎌倉幕府に謀反の野心あり」と報告。
多気義幹は鎌倉へ呼ばれるも適切に弁明できず、所領と所職が没収されて馬場資幹に与えられた、
多気義幹の身柄は岡部泰綱に預けられ失脚している。





八田知家は常陸守護に任じられ、本拠を肥沃な筑波・小田にした。
のち八田氏は小田氏と称するようになったので小田氏の始祖は八田知家と言う事になる。
更には北条時政に敵意を抱いていた多気義幹の弟・下妻弘幹も排除した。

八田知家の領地

1196年、壇ノ浦の戦いで敗れた藤原景清(平景清)が降伏すると、一説では侍所別当・和田義盛より八田知家が預かったが、絶食して果てたとされている。
<注釈> この平景清には伝説が多く、鎌倉二階堂の永福寺の造営中に、視察に来た源頼朝を暗殺しようして捕まったともある。
吾妻鏡によると、鎌倉の八田知家の屋敷は、南御門にあるとも書かれており、現在の岐れ道付近だと考えらる。

1199年、源頼朝が死去して、鎌倉幕府2代将軍に源頼家が就任。
八田知家は「十三人の合議制」のひとりとなった。

1203年、阿野全成と北条氏政の反乱が露見し、阿野全成は下野の宇都宮頼業に預けられた。
そして、源頼家の命を受けた八田知家は、阿野全成を誅殺している。

1218年、八田知家は死去。





家督は子の小田知重(八田知重)が継ぎ、1228年から常陸守護に任じられている。
また、別の子・筑波為氏は筑波国造の名跡を継ぎ、筑波別当になっている。

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