多気義幹(平義幹)のわかりやすい3分解説~次男・多気茂幹も

目次 contents
  1. 多気義幹とは
  2. 多気茂幹

多気義幹とは

多気義幹(たけ よしもと)は鎌倉時代初期で、本拠地は筑波郡多気(北条)になります。
常陸大掾氏の祖(高望王流桓武平氏)である水守城・平維幹(たいらのこれもと)が、常陸・多気に本拠を移しますが、それから6代目が、平義幹(多気太郎義幹)になります。

常陸・多気

父は多気直幹(平直幹)とされますが、常陸大掾を継げたかどうかは、不明といったところです。
母は、千葉常胤の娘とも考えられ、兄弟には、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹がいます。

源頼朝が鎌倉を制圧した頃は、平氏だったこともあり、多気義幹は、まだ、味方していません。
富士川の戦いにて勝利した源頼朝は、佐竹義政・佐竹秀義を攻撃するため軍を進めて、1180年11月4日、金砂城の戦いとなりました。
当時、佐竹氏は、相馬御厨などの領地で、源頼朝に協力した、千葉常胤、上総広常と争っていました。
源頼朝は、佐竹氏に勝利して、関東の敵対勢力が駆逐された訳ですが、その前後に、多気義幹も。源頼朝に従うようになったと推測されます。
奥州合戦などでは、鎌倉幕府の軍勢として、多気義幹が活躍しています。



筑波・北条の常陸・多気山城の中腹には、日向廃寺跡があります。
多気義幹が建立したとされていますが、宇治平等院鳳凰堂と同じ形式の、大変立派な寺院跡が発掘でわかっています。
また、火災で焼亡したと判明していますが、多気氏の隆盛を物語っています。

1193年5月28日、曾我兄弟の仇討ちが発生すると、常陸大掾氏の多気義幹を、北条時政八田知家が罠にはめます。
まず、八田知家は、自身が、多気義幹を討とうと準備していると、噂を流したようです。
それを知った多気義幹は、警戒するため、常陸・多気山城に兵を集めました。

そこで、八田知家は「仇討が発生したので、一緒に富士野に行こう」と使者を送ったので、多気義幹は、多気城の防備を固めました。
そして、6月12日、八田知家は「多気義幹が謀反」と、鎌倉幕府に報告したので、八田知家と多気義幹は、鎌倉に呼ばれて、6月22日に尋問を受けています。

八田知家は、多気義幹に、富士野に駆けつけようと提案したが、多気義幹は兵を集めて多気山城に立て籠もり、叛逆を企てたと主張しました。
もちろん、多気義幹も、反論しましたが、兵を集めて立て籠ったことは、否定できず、事件に際しての鎌倉不参を咎められて所領没収となりました。(建久4年の常陸政変)



余談ですが、多気義幹の先祖に、常陸大掾に任じらた平繁盛がおります。
その平繁盛の子孫には、伊豆国山木郷に入った山木兼隆がおり、1180年に源頼朝が挙兵した際に、討たれています。
もしかしたら、この山本氏の恨みもあるのでは?と、多気義幹は警戒されたのかも知れません。

多気義幹は、駿河・朝日山城の麓駿河国志太郡岡部郷(静岡県藤枝市岡部町)の岡部泰綱に預けられました。
一般的に、多気義幹のその後は不明となっていますが、没日は7月6日と、7月15日の2説あるようですので、自刃した可能性も考えられます。

遺臣などが、多気義幹の遺徳を偲び、霊骸を迎えて葬ったのが、北条にある北条五輪塔 (伝・多気太郎義幹墓)となります。

多気太郎義幹墓

更に、最後の敵でもある多気義幹の弟・下妻弘幹に関しても、北条時政に敵意を抱いたとして、源頼朝の命を受けた八田知家が、1193年12月13日に、下妻弘幹を梟首しています。



結局、肥沃な筑波の南麓一帯は、八田氏の所領となり、下野から本拠を常陸・小田城に移し、常陸守となりました。
八田知家の8男・筑波為氏(筑波八郎為氏)は、筑波山に筑波城を築くなど、子供たちが、筑波に基盤を築き、その後、八田氏は、小田氏と称して、戦国時代まで続きます。

さて、失脚した多気義幹は、駿河の岡部泰綱に預けられたわけですが、鎌倉時代、身柄はだいたい親戚が預かりますので、多気氏と岡部氏は、親類だったと考えられます。
岡部権守泰綱は、武蔵国の住人ともあるのですが、それはのち加増を受けたようで、先祖は藤原南家・工藤氏の流れで、入江清綱の子とあります。
この入江氏の租は、藤原為憲で、伊豆で勢力を張った工藤氏の祖でもあり、工藤兄弟も工藤氏と言え、工藤兄弟に討たれた工藤祐経も、もちろん工藤氏です。
そして、藤原為憲の母は、高望王の娘と言う事でした。
常陸大掾氏(高望王流桓武平氏)の始まりは、高望王からです。
ただし、これだけでは、親戚と申しましても、遠い親戚ですので、更に多気義幹の接点があるのか?、調べましたら、おもしろいこともわかりました。

どうやら、多気義幹の妻、もしかしたら後妻かも知れませんが、多気義幹の妻は狩野氏の娘がいることがわかりました。
その狩野氏の娘は工藤茂光の妹で、次男・多気茂幹を産んだとされます。
妻が工藤茂光の妹と言う縁があり、同じ工藤氏でも、高望王から繋がる岡部泰綱に預けらたと言う事になりす。
なお、多気義幹の長男は多気貞幹で、更に多気信幹と言う子もいますが、母が同じかどうかは不明です。



ちなみに、富士市にある曽我八幡宮は、1197年に、源頼朝が岡部権守泰綱に命じて建てたものとされ、当時の岡部泰綱は、駿河を代表する武将でした。

多気茂幹

上記でご紹介したとおり、多気茂幹(しげもと)は、多気義幹の次男とされます。
母は、工藤茂光の妹です。
多気義幹が、岡部泰綱に預けられた際に、妻・工藤茂光の妹と、多気茂幹も岡部氏に預けられたとあります。
しかし、多気茂幹は、まだ7歳くらいと幼少だったようで、母の兄弟である狩野宗茂が養育した模様です。



しばらくして、常陸大掾となった馬場資幹が、鎌倉幕府に、多気茂幹の謹慎解除を願い出た結果、多気茂幹は常陸に戻り、馬場資幹(大掾資幹)の世話を受けたようです。
のち、多気茂幹は、大掾資幹の娘を娶り、茨城郡坂戸に住居を与えられたとあります。
その子孫は、行方市の芹沢城にて芹沢氏になったと言います。

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