平貞盛の解説~藤原秀郷(俵藤太)と平将門を討つ

目次 contents
  1. 平貞盛とは

平貞盛とは

平貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将で、常陸大掾で常陸・石田館主となる平国香(平良望)の嫡男です。
母は、藤原村雄の娘(藤原秀郷の姉妹)とされ、平貞盛は、筑波山を望む、常陸・石田館で、920年頃?産まれたと考えられています。

系統としては、系統としては、桓武天皇 → 葛原親王 → 高望王(高望王流桓武平氏の祖) → 平国香 → 平貞盛 と直系です。

平貞盛は、元服後すると、上洛して朝廷に仕えたようで、左馬寮に出仕し、左馬允として武官職に励みました。



弟には、平繁盛、平兼任、他の男子がいます。
妻は、関口貞信の娘で、子には、平維将、平維敏、平維衡がいます。
なお、養子を一族からたくさん迎えており、平維叙、平維幹、平維茂、平維時、平維輔らがいます。

935年2月4日、真壁の領主・源護の子である源扶・源隆・源繁の兄弟が、真壁・野本(茨城県筑西市赤浜付近)にて、平将門を待ち伏せしました。
この野本の戦いで、平将門は撃退しており、源扶ら兄弟は奮戦するも討死したとされます。
勢いに乗じた平将門は、大串・取手(下妻)から、源護の本拠・真壁を焼き討ちしました。
そして、源護の娘ほ妻にしている平国香も襲撃され、常陸・石田館にて平国香は焼死したとあります。

その報告が京に届くと、平貞盛は、左馬寮に休暇届を出して、常陸に戻り、焼失した屋敷から父・平国香の屍を探し出しました。
また、筑波山に避難していた、母と妻らを探し出したともあります。

休暇申請して常陸に来たくらいですので、平貞盛は事後処理をしたら、京に戻って、出世の道を進むつもりだったようですが、帰るに帰れない事態となりました。

叔父・平良兼らに説得されて、父を討った、平将門と戦うことになり、常陸大掾にも任官されました。



936年6月、伯父・平良兼が上総国から出陣すると、平貞盛は、平良正水守営所に入って、3人で会談しています。
その後、平良兼・平貞盛らは、下野国へ向かったようで、追撃した平将門と、常野の国境にて合戦になりました。

敗れた平良兼・平貞盛らは、下野・国衙(下野国庁?)まで撤退し、保護を求めたとあります。
この頼った相手が、のちの平安時代末期、関東武士のキーパーソンとなる、藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)と考えられます。
<注釈> 平貞盛の母は、藤原村雄の娘(平国香の妻)で、その藤原村雄の嫡男が藤原秀郷。

このように、劣勢になったことから、938年、平貞盛は、密かに京へと向かましたが、察知した平将門の軍勢に、信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(滋野善淵)、小県郡司の他田真樹らと戦闘になります。
敗れたもの、なんとか、京の都に辿り着きました。

そして、平将門を逮捕する許可「挙召将門之官符」を得て、下向しました。
その間、939年6月上旬には、叔父・平良兼が病没したようで、そんなことを知らずに、下向した模様です。

939年10月、陸奥守になった平維扶が、赴任途中、下野国府に入ると、秘かに、平貞盛は会いに行きました。
かつて、平貞盛の上官が、左馬頭・平維扶であった模様です。
そして、平維扶に同行して、陸奥に向かおうとしましたが、再び平将門の追撃を受けたます。
一旦、身を隠した平貞盛を置いて、平維扶は先に陸奥へと向かったようです。



平将門の探索が厳しく、なかなか、山を降りることができなかった平貞盛は、ようやく常陸に逃れると、高望王の娘の嫁ぎ先である、常陸介・藤原維幾と、平将門に挑みますが、また失敗します。
常陸国府の藤原維幾も、平将門に降伏して捕まり、下総国豊田郡鎌輪宿に幽閉されました。
そのため、藤原維幾と高望王の間の子、藤原為憲(ふじわら の ためのり)は、平貞盛と共に、平将門の探索をかわしながら潜伏しています。
また、報告を受けた朝廷は、正式に、平将門の討伐を決定し、参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられて出立しています。

引き続き、平将門は、平貞盛と藤原為憲を探しており、940年、5000の兵にて捜索しても、見つかりませんでした。
ただし、平貞盛の妻と、源扶の妻が「吉田郡蒜間之江辺」にて捕らえられました。
平将門は、裸の状態だった彼女らに着物を与えて放免すると、10日間で捜索を中断し、兵を各地の領地に返しています。
この兵を帰還させた時期は、現代の3月あたりに相当するため、もしかしたら、田植えの準備があり、兵を返した可能性も考えられます。



この兵の分散を知った平貞盛らは、母方の叔父・藤原秀郷の協力を得て約4000の兵を集め、平将門へ反撃に出ました。
このとき、平将門の手勢は約1000程度であったともされ、2月14日「北山の決戦」にて、老練で軍略に長じた藤原秀郷の活躍もあり、ついに平将門に勝利しました。
平将門の首は、石井営所にて洗われると、平安京へ運ばれて、晒し首となりました。
その後、所縁の者たちにより、江戸に戻されて、神田明神の傍に、平将門の首が埋葬された言うことになります。

ちなみに、藤原維幾は救出され、子の藤原為憲は、平将門討伐の功績により、従五位下、木工助となり、伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守を歴任しました。
伊豆に入った一族は「工藤氏」を称し、工藤茂光工藤祐経や、伊東氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などに繋がっています。

平貞盛は、長年の苦労のうえの功績は大きいとされ、従五位上に叙せられました。
その頃、平貞盛は還暦前後だったとされ、のち、947年に鎮守府将軍、972年丹波守、974年陸奥守に転じ、後に従四位下に叙せられて「平将軍」と称しました。

晩年は、京にて隠居生活をして、989年に平貞盛は死去しています。
享年不明ですが、920年頃の生まれと推測されていることから、約70歳と考えられます。



養子が多いと前述しましたが、勲功によって中央とのつながりを強化した平貞盛は、子どもの立身のみならず、甥や甥の子供など、たくさん養子にして、一族を繁栄へと導いたと言えます。

平貞盛から見た父子兄弟

平国香 … 父
平繁盛 … 弟
平維将 … 次男。北条時政の祖。
平維衡 … 四男。平家嫡流になった伊勢平氏の祖で、平清盛戦国時代には伊勢宗瑞 (北条早雲)も輩出。
平維茂 … 平繁盛の養子。通称「余五将軍」。板額御前を輩出した越後平氏・城氏の祖。 

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