平国香の解説~筑波山の西に拠点を持った平高望の長男(常陸平氏の租)




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目次 contents
  1. 平国香とは

平国香とは

平国香(たいら の くにか) は、平安時代中期の武将で、平高望の長男として生まれました。(生年不詳)
母は藤原北家・藤原良方の娘です。

平国香

系統としては、桓武天皇 → 葛原親王 → 高望王(高望王流桓武平氏の祖) → 平国香

898年、上総介となった父・高望王(平高望)は、正室・藤原良方の娘が産んでいた、長男・平国香、次男・平良兼(たいら の よしかね)、3男・平良将(たいら の よしまさ) と共に、千葉に赴任しました。
高望王(平高望)は、武射郡(山武市)を本拠にしたと考えられ、横芝光町には「屋形」と言う地名が残っています。
平国香じたいは、当初、上総国菊間(千葉県市原市菊間)を本拠にしたと考えられます。
小弓城からも使いところで、江戸時代には菊間陣屋も置かれましたので、古くから栄えていたのがわかります。





さて、平国香の妻としては、源護の娘、藤原村雄の娘、ほかに家女房なる女性が見受けられます。
藤原村雄の娘は、藤原秀郷の姉妹です。
子としては、平貞盛、平繁盛、平兼任などがいます。

ちなみに、家女房(いえにょうぼう)とは、家(屋敷)で仕える侍女と言う事になるでしょう。

上記のように、常陸大掾・源護の娘を妻にすると、源護(みなもと の まもる)の領地に移ったと考えられ、平国香が常陸大掾を継いだともされます。
源護の本拠は、真壁にあり、常陸・石田館とは約9km、徒歩2時間くらい離れた場所となります。
<注釈> 常陸大掾の源護は、武蔵権介になった源宛(箕田宛)と同じ嵯峨源氏と考えられる。





その頃、源護は、新治・大國玉(茨城県桜川市大国玉)の大国玉神社神官・平真樹と領地の境界線争いとなっているため、高望王(平高望)に支援を求めた可能性も考えられます。
これに対して、平真樹(たいらのまさき)は、娘・君の御前を、平将門に嫁がせて、急に力をつけていた、平将門に調停を頼みました。
平将門は、父・平高望の3男である平良将の子となります。

やがて領地争いは混迷を極め、935年2月4日、源護の子である源扶・源隆・源繁の兄弟が、真壁・野本(茨城県筑西市赤浜付近)にて、平将門を待ち伏せしました。
この野本の戦いで、平将門は撃退しており、源扶ら兄弟は奮戦するも討死したとされます。
勢いに乗じた平将門は、大串・取手(下妻)から、源護の本拠・真壁を焼き討ちし、常陸・石田館の平国香も襲撃され、平国香は焼死したとあります。

常陸・石田館

なお、真壁の源氏と、新治の平真樹の争いは、平将門の乱(承平天慶の乱)へと繋がって行きました。

その後、京で朝廷に仕えていた、平国香の子・平貞盛は、休暇を申請して常陸に下向しました。
そして、焼失した屋敷から父・平国香の屍を探し出し、また、筑波山中に避難していた母・藤原村雄の娘と、妻らを探したともあります。

平貞盛は、京に戻って出世の道を進もうと考えていましたが、やむを得ず、平将門に対するようになります。
常陸大掾に任官すると、母方の叔父・藤原秀郷の支援があり、最後には、平将門に勝利した大将のひとりになりました。





平国香の墓は、平国香が創建したと言う、石岡・平福寺に、子孫の大掾氏の墓所と共にあります。
また、常陸・石田館から東に離れた、台地の先端付近、筑波山を望む場所にも、平国香の墓があるようです。

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