伊東祐光の解説~鎌倉時代初期の伊東氏当主?




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伊東祐光とは

伊東祐光(いとう-すけみつ)は、鎌倉時代の武将で、伊豆の工藤氏(伊東氏)の一族から、日向・伊東氏2代当主となりました。
父は、伊東祐時(工藤祐経の嫡男)であり、その6男として生まれたとされますが、父に関しては諸説あり、工藤祐経の子ともされます。
伊東祐光(伊東八郎左衛門祐光)の生没年は不明ですが、推測で1200年頃に生まれたものと考えられます。
母も不詳ですが、父・伊東祐時の妻は、中村党である土肥遠平の娘ですので、母になるかも知れません。
兄弟には、早川祐朝、稲用祐盛、三石祐綱、田島祐明、長倉祐氏、門川祐景、木脇祐頼、稲用祐忠がおりますが、多くは日向の工藤氏領地に下向したようです。





伊東祐光の妻は、後藤基綱の娘とされます。
後藤佐渡前司基綱の娘は、三川内侍(みかわないし)と呼ばれていたようです
他に、少なくとも、ひとり妻がいたとされます。
長男は、伊東景祐ですが、廃嫡(理由不明)になっています。
そのため、次男・伊東祐宗(1265年~1339年)が、嫡子となりました。
他には3男・伊東憲祐、4男・伊東祐秀がいます。

1252年、父と考えられる伊東祐時が死去。享年68。

日蓮上人が、伊東に流罪となった際に、伊東祐光の病気が、日蓮の祈願を受けると治ったので、日蓮に帰依したと言う逸話があります。(伊豆法難)
日蓮が、伊豆に流されて滞在していたのは、1261年~1263年です。
伊豆・伊東荘の伊東八郎左衛門が世話をしたようです。
この場合の伊東八郎左衛門に関しては、伊東館の伊東祐光、玖須美館の伊東朝高(いとう-ともたか)と、2名の名があり、どちらの人物だったのか?、それとも、伊東祐光と伊東朝高は、同一人物なのか?、伊東祐光はすでに亡くなっているのか?など、詳しいことが不明です。

玖須美館

伊東朝高(伊東八郎左衛門朝高)は、1275年に亡くなっており、玖須美館(伊東・佛現寺)に墓もあります。

伊東祐光の没年は不明です。





なお、伊東氏においては、こひの鎌倉初期の伊東祐光以外にも、伊東祐光と称する武将が、何名かいます。
同一人物ではない場合、鎌倉時代の初期だけで、伊東祐光と称した武将が、少なくとも、3名以上、いた可能性もあります。
そのため、混同しないよう、注意が必要です。

伊東祐清の子?

なお、伊東祐光の父に関しては、伊東祐清とする説もあります。
伊東祐清の子が、伊東祐光だとした場合、1225年に、伊東祐光は出家して、平塚・高麗寺大権現(大磯町高来神社)の別当になったとされます。
そのとき、国府津(勧堂)に滞在していた親鸞聖人と出会い、弟子になると、法名・善念房了源と賜っています。
足柄に阿弥陀堂を建立するなどしました。
1239年には、足柄の善福寺となっており、伊東九郎祐清の子・平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)の創建となっています。
ちなみに、善福寺の裏山には、藤原範茂の墓もあります。

伊東氏の本家は、引き続き伊豆でしたが、鎌倉幕府が滅び、室町幕府ができると、1335年、足利尊氏の命にて、伊東祐持(いとう-すけもち)が、日向の領地に下向し、伊東宗家は、日向・都於郡城に移りました。





戦国時代にかけて、九州の伊東氏は、駿河・今川氏に仕えた一族もあり、小田原・北条氏の下では、伊東政世(伊東九郎三郎政世)が、伊東や相模・青山郷などを知行し、伊東に復活しています。
江戸時代には、日向・飫肥藩、備中・岡田藩などは、伊東氏が大名として見られます。

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