伊東祐時の解説~曽我兄弟に殺害された工藤祐経の嫡男 (鎌倉殿の13人)

目次 contents
  1. 伊東祐時とは

伊東祐時とは

伊東祐時(いとう すけとき)は、鎌倉時代前期の武将で、伊東氏の当主です。
父は、伊東荘の工藤祐経で、1185年に生まれました。
母は、中村党である土肥遠平の娘です。



弟に、安積祐長、工藤祐長、工藤祐光(伊東祐光)がいます。
子供としては、伊東祐光、早川祐朝、稲用祐盛、三石祐綱、田島祐明、長倉祐氏、門川祐景、木脇祐頼、稲用祐忠がおります。
なお、子も弟ともされる、工藤祐光(伊東祐光)に関しては、伊東氏において、何名か、同じ名を名乗っており、父が諸説あります。
工藤祐経の子とも、伊東祐時の子とも、伊東祐清の子ともあり、よくわかりません。



1193年、曾我兄弟の仇討ちがあり、父・工藤祐経が討たれました。
捕縛された曾我兄弟の弟・曾我時致は、勇士とされ、源頼朝らは助命しようとも考えたようですが、まだ、9歳くらいの犬房丸(伊東祐光)が泣いて訴えたとあります。
そのため、曽我時致の身柄は、工藤氏に引き渡されて、処刑されました。
伊東祐時(工藤祐時)は、元服すると、鎌倉幕府の御家人となり、伊東荘(伊豆・伊東館)を継いだようです。

下記は工藤氏の家系図(伊東氏の家系図)になりますが、当サイトでは、記事中の画像類は、クリックすると、拡大表示されます。

工藤祐経の家系図

弟・工藤祐長(くどう すけなが)は、伊勢平氏残党の討伐で功績があったようで、伊勢国長野の地頭職となり、安濃郡・奄芸郡の2郡を領地にし、子孫は長野氏を称しました。(伊勢長野工藤氏)
戦国時代に、北畠具教を槍で殺害したと言う、長野左京亮が知られます。

1197年、日向国図田帳に、宇佐宮領県庄・富田庄・田島庄・諸県庄約750丁の地頭として故勲藤原衛門尉とあります。
この藤原衛門尉は、伊東祐時と考えられ、日向を領しました。
そのため、子の多くが、日向の工藤氏領地に下向し、日向・伊東氏へと発展して行きました。

1221年6月、後鳥羽上皇が兵をあげた、承久の乱の際には、鎌倉勢の東海道軍として京に上っています。
1227年、御所内裏が焼失すると、伊東祐時が、鎌倉幕府将軍の御使として上洛しています。

1235年、伊東祐時は、従五位上、検非違使、左衛門尉、大和守に任じられました。



1252年、伊東祐時は死去。享年68。

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