わかりやすく【工藤祐経】解説~工藤氏の内紛から曾我兄弟の仇討ちへ~オリジナル家系図あり




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目次 contents
  1. 工藤祐経とは

工藤祐経とは

工藤祐経(くどう-すけつね)は、平安時代末期の武将で、工藤祐継(工藤祐次)の嫡男として1147年頃に生まれた。
当時の工藤氏は、伊豆で最大勢力でしたが、祖父・工藤祐隆(くどう-すけたか)のとき正式な後継者指定に失敗したと言え、のち鎌倉幕府を巻き込んだ曾我兄弟の仇討ちに繋がってしまう。

工藤祐経

祖父・工藤祐隆(工藤家次)は久須美荘(伊東荘・宇佐美荘・大見荘・河津荘など)の領しており出家すると久須美入道と号した。
嫡男・伊東祐家(すけいえ)に伊東荘を与え、工藤茂光は狩野荘に入り狩野茂光となった。
また、祖父・工藤祐隆(久須美入道)は、大見城主・大見家政の娘・大見玉江(玉枝姫)を後妻に迎えた。
この大見玉江(玉枝姫)も再婚だったようで、連れ子となる八田宗基の娘が、工藤祐継を産んだとされ養子にしたともある。
<注釈> 祖父・工藤祐隆が、大見玉江に産ませた子とする説もあるなど諸説あり詳しくは不明。八田宗基は大見荘・関野。





とても、わかりにくいため工藤氏・伊東氏の家系図を製作したので、よければご高覧賜りたい。
※当サイトでは、パソコンなど大きな画面にて記事中写真・画像をクリックすると拡大表示される。

工藤祐経の家系図

そして、不幸にも嫡流の伊東祐家が若くして亡くなり、子の伊東祐親がまだ幼い時に祖父・工藤祐隆が危篤となった。
この時、工藤祐隆の遺言により年上の工藤祐継が本領とも言える伊東荘・宇佐美荘を継ぎ、伊東氏(工藤氏)の嫡流筋であるがまだ幼かった伊東祐親は河津荘を与えらた。

このように、伊東庄・宇佐美庄を受け継いだ工藤祐継の子が、この記事にてご紹介している工藤祐経(くどう-すけつね)となる。
その工藤祐経の弟が、宇佐美祐茂であるため、弟は宇佐美を領したと考えられる。(すべてにおいて諸説あり)
工藤祐経の父・工藤祐継がなくなると、まだ若かった工藤祐経を伊東祐親が後見した。





元服した工藤祐経は、伊東祐親の娘・万劫御前を正室とし伊東祐親と上洛すると、小松内府殿の館(小松殿・平重盛の屋敷)を訪ね平重盛に仕えた。
21歳頃ともされる、1172年のとき、皇居に参内し、天皇の御所・清涼院(滝口)武者所の職に就任し近侍している。

しかし、後見の伊東祐親は、本来であれば自分が嫡流筋であり不満を持っていたとされ、工藤祐経が京にいる間、伊豆に戻っていた伊東祐親は工藤氏の伊東荘を押領する。
嫁がせていた万劫御前も、離縁させると、土肥遠平に再嫁させてしまった。
<余談> 土肥遠平(どひ-とおひら)の土肥氏は、小田原の小早川村から安芸国に移り戦国時代の小早川氏に繋がる。

伊豆に戻ることもできなくなった、工藤祐経は何度も京の六波羅に訴訟(裁判)を起こし旧領回復を目指す。
しかし、伊東祐親は、すでに平重盛に土地を寄進するなどしており訴訟はうまく行かなかった。
<注釈> 後白河法皇は、領地を、両人の者だとする、あやふやな裁定を下したとも。





そのため、工藤祐経は、大見成家と八幡行氏(八幡三郎行氏)に伊東祐親の暗殺を命じた。
<注釈> 大見成家/大見小藤太(おうみことうた)と、八幡行氏/八幡三郎行氏(はつまさぶろう)
1176年10月、伊東祐親を討ち漏らすも、伊東祐親の嫡子・河津祐泰を射殺している。

<注釈> 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、伊東祐親から命を狙われた源頼朝は、領地を失いみすぼらしい姿になり果てていた工藤祐経に暗殺を命じたとする説が採用されている。

夫・河津祐泰を亡くした妻(横山党・横山時重の娘)は、幼子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟を連れて曾我祐信に再嫁。
この兄弟が、のちに曾我兄弟として、世に知られる事になる。

1180年8月、源頼朝が挙兵した際に、伊東祐親と次男・伊東祐清は、平氏側として一貫して戦っており富士川の戦いのあとに捕らえられて自刃した。

かつて、伊東祐親の娘・八重姫と源頼朝が恋仲となった際に伊東祐親は源頼朝を殺害しようとが、伊東祐親の次男・伊東祐清(いとう-すけきよ)は、源頼朝に危険を知らせて逃がしている。
そのため、源頼朝は伊東祐清は許すとしたが、父が自害した以上は、自らも死を願ったともされている。

伊東祐清の妻・比企尼の3娘は、幼い河津祐泰の子を引き取っていて平賀義信に再嫁した。





工藤祐経の弟・宇佐美祐茂は、最初から源頼朝に従っており本領を安堵されている。
こうして、伊東祐親が自害したあと工藤祐経は鎌倉の源頼朝に臣従し、宇佐美祐茂の仲介なども受けて伊東荘を取り返し復活したと考えられる。

下記は、鎌倉材木座にある、工藤祐経の屋敷跡(鎌倉・実相時)

工藤祐経の屋敷跡

そして、工藤祐経は、平氏討伐で源範頼の軍勢に加わっている。
鎌倉幕府の中では、長年、都にいて、精通している経験を期待され重用されたようで、1192年、源頼朝が征夷大将軍に就任した際には勅使へ引き出物の馬を渡す名誉な役回りを担当している。

エピソードとしては、1190年7月、鎌倉・大倉御所にて「双六の会」が開催された際の話がある。
遅れてきた工藤祐経は、座る場所がなかったので先に座っていた15歳の加地信実を抱え上げて席から外させた。
これに、加地信実は怒って石礫を持ってきて高齢だった工藤祐経の額を叩いて鎌倉から離れたと言う。





源頼朝は怒り、加地信実の実父・佐々木盛綱に子の身柄を引き渡しを要求したが、佐々木盛綱は既に義絶(縁を切った)したとして謝罪するも引き渡しをを拒否した。
これに対し、工藤祐経は、佐々木親子に怨みを持たないと述べて源頼朝を安心させている。

1193年5月、源頼朝は富士の裾野にて大規模な巻狩りを行い工藤祐経も参加した。

流鏑馬の像

巻狩りの最終日である5月28日深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曽我祐成(22歳)・曽我時致(19歳)の兄弟が屋敷に押し入り工藤祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。
工藤祐経が仲介して御家人となっていた備前・吉備津神社の神官・王藤内も命を落としている。

下記は、工藤祐経が襲撃された場所ともされる、白糸の滝近くにある工藤祐経の墓。

工藤祐経の墓

曽我祐成は、現場近く仁田忠常が討ち取り、曽我時致は捕えられた。
曽我祐成が討ち取られた場所には下記の曽我八幡宮がある。

曽我八幡宮

また、仁田忠常が滞在していた場所とされる丘には曾我兄弟の墓もある。

曾我兄弟の墓

この襲撃は、鎌倉に、源頼朝が襲われたと第1報が届き、驚いた北条政子に「あとは心配なく」と言う趣旨を述べた、源範頼が謀反を疑われ修善寺に幽閉されたあと殺害されることになった。

また、騒動後に、調査をした結果、源頼朝は曾我時致を助命しようと考えた。
しかし、工藤祐経の子の犬房丸が、泣いて訴えたため、曾我時致の身柄は引き渡され富士にて斬首となっている。
下記は、五郎の首洗い井戸がある場所。

五郎の首洗い井戸

涙で訴えた、工藤祐経の子・犬房丸は元服すると伊東祐時と伊東氏を称し、子孫は日向国へ移り住むと戦国大名の日向・伊東氏/飫肥藩主と続いている。
他にも、工藤祐経の子は、安積祐長、伊東祐光がいる。





<注釈> 伊東祐時や安積祐長の父は、工藤祐経だが母は千葉常胤の娘とする説もある。
<注釈> 工藤祐経の娘・妙 (妙一尼) が、印東祐昭(印東治郎左衛門尉祐昭)に嫁いでおり、子に印東祐信(印東左衛門尉祐信)や、次男・日昭(1236年~1323年)がいる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の坪倉由幸さんが工藤祐経を演じられる。

工藤祐経の墓や、五郎の首洗い井戸などの場所は、当方のオリジナル関東地図でもポイントしている。
地図の検索窓から検索すると便利。

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