宇佐美祐茂の解説(宇佐美助茂・宇佐美三郎)~宇佐美館主で源頼朝の側近




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宇佐美祐茂とは

宇佐美祐茂(うさみ-すけもち)は、平安時代末期の武将で、宇佐美助茂、宇佐美三郎とも書きます。

宇佐美祐茂

久須美荘(くすみのしょう)の領主である工藤祐隆(くどう-すけたか)は、大見城主・大見家政の娘・大見玉江(玉枝姫)を後妻に迎えます。
この大見玉江(玉枝姫)も再婚で、連れ子となる八田宗基の娘が、工藤祐継を産んだとされます。
そして、工藤祐隆は、工藤祐継ら伊東荘・宇佐美荘を与え、伊東氏の嫡流である嫡孫・伊東祐親に河津荘を与えました。
<注釈> 久須美荘(葛見荘)とは、伊東荘・宇佐美荘・河津荘・大見荘の総称だった模様で、分割したため、新たに伊東荘・宇佐美荘・河津荘と言う細かい地名で呼ばれるようになったと考えられる。





その伊東庄・宇佐美庄を受け継いだ工藤祐継の子が、工藤祐経(くどう-すけつね)となります。
その工藤祐経の弟が、宇佐美祐茂と言う事になりますが、諸説あり、なんとも言い難いところです。
工藤祐経の後見人を務めていた伊東祐親が、伊東荘を押領します。
そのため、工藤祐経は、大見成家と八幡行氏(八幡三郎行氏)に伊東祐親の暗殺を命じますが、1176年、伊東祐親の嫡子・河津祐泰が射殺されました。
その河津祐泰の子どもたち(曽我祐成・曽我時致)は、母・横山時重の娘が曾我祐信と再婚したときに連れ子となっており、「曽我物語」に描かれる、曾我兄弟の仇討ちを、1193年に行うことになります。

この間、宇佐美祐茂に関しては、同行が不明など、宇佐美氏は名前はよく登場するのですが、史料に乏しく、一族に関してはよくわからないところが多いです。

1180年、源頼朝の挙兵に際し、宇佐美祐茂・工藤茂光(狩野茂光)・土肥遠平・田代信綱・大見政光・大見実政・加藤景廉・​天野遠景・北条時政・北条宗時・江間義時(北条義時)・仁田忠常・真田与一(佐奈田与一義忠)・土屋宗遠らは、石橋山の戦いにも参じ、宇佐美祐茂は25功臣のひとりに数えられています。
これに対し、八重姫の父でもある伊東祐親は、源頼朝には味方せず、のち富士川の戦いにて捕らえられ、自害しています。

鎌倉幕府が成立すると、宇佐美祐茂(宇佐美助茂)は鎌倉の源頼朝に近仕しています。
1189年の奥州征伐に加わり、源頼朝に従って上洛も果たしました。

その後、大見荘の大見実政が、宇佐美実政、宇佐美實政となる記述もみられることから、同時期に宇佐美氏が3名存在したと言う事になります。
それを知った最初は、大見氏が宇佐美荘まで勢力を伸ばしたのかとも感じました。
しかし、海岸の宇佐美荘も、山に入った大見荘も、同じ田方郡です。
文献として記載する際に、大見氏を宇佐美氏と間違えたのか、同じ工藤一族ですし、土地として同じ豪族だと解釈したのか?
工藤氏も、狩野氏・伊東氏などと、明記されるケースも多々あります。
大見と宇佐美は、今でも、クルマで30分の距離と言う事で、近くであることから、大見政光が宇佐美政光、大見実政は宇佐美実政と、記載することもあったのかな?(誤記か、そのように解釈した)とも感じております。





なお、大見政光と大見実政兄弟の系統は、1190年、藤原泰衡の残党・大河兼任が反乱した大河兼任の乱にて大見実政が討死したあと、一族で越後の所領に移り住みました。
そして、上杉謙信に仕える、安田氏、水原氏、山浦氏、下条氏などの諸氏を輩出しています。

話を戻して、伊豆にて続いた宇佐美祐茂(宇佐美助茂)の嫡系は、宇佐美祐政-宇佐美祐泰-宇佐美祐明と考えられ、鎌倉幕府滅亡前後の当主は、宇佐美貞祐となります。

伊豆・宇佐美氏は続きましたが、戦国時代となり、1493年、伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻撃した際に、宇佐美貞興(宇佐美定興)は、堀越御所にて討死にしたとあります。
のち、宇佐美城も約10日籠城したあと、陥落となったようです。
1495年には伊東祐遠が伊勢氏(北条氏)に寝返り、1498年には伊豆・狩野城も陥落しました。

宇佐美一族の墓

静岡県伊東市宇佐美の少し山に上がった住宅地に「東光寺」があり、建物の左側に、宇佐美一族の墓があります。
一番左の大きな墓石が、宇佐美三郎祐茂の墓ともされます。

宇佐美一族の墓

伊豆は、江戸時代だけで4回程度、津波に襲われており、関東大震災の時でも、宇佐美は約7mの津波被害となりました。(熱海は12m)
そのため、伊豆を観光していた時に、大きな地震を感じたら、20m、30m以上へと、すぐに避難した方が良いと感じますが、このように、過去にも何度も津波があり、墓石も、津波で被害を受けました。
(下記写真は、宇佐美から伊東を望む)

宇佐美から伊東を望む

それら、古い墓を、一カ所にまとめたのが、東光寺にある宇佐美一族の墓となります。
なお、宇佐美・東光寺には、本堂のような建物がありますが、とてもお寺さんとは感じられないところです。
コンクリの古い一軒家が本堂になっているようですが、実質的に廃寺の、たたずまいになっています。(当方地図でもポイントしておきます)
ただし、地元の方が、草刈りなどなさっているのか、周囲は、きちんと、キレイな状態となっていました。

なお、宇佐美・東光寺は、室町時代の1489年に伊豆守護・宇佐美祐孝が、討死した子・宇佐美貞興の菩提を弔うために創建したともあります。
宇佐美館がどこにあったのかも、よくわかりませんが、個人的には宇佐美中学校付近が、怪しいように感じます。





なお、宇佐美氏は、越後・伊勢・阿波にも散らばっております。
春日山城の上杉謙信を支援した、琵琶島城で軍師の宇佐美定満が著名です。
足利直義の執事(関東管領)上杉憲顕に従って、越後に移った宇佐美祐益が琵琶島城を築き、戦国時代の宇佐美房の子が、宇佐美定満になります。

工藤氏の一族としては、二階堂行政から、更に須賀川城の二階堂氏などに分かれています。
伊東祐親の娘・万劫御前が嫁いだ小田原の土肥実平の嫡男・土肥遠平からは、小早川隆景の小早川氏。
工藤祐経の子・伊東祐時(いとう-すけとき)は、土肥実平の嫡男・土肥遠平の娘を迎え、6男・伊東祐光(いとう-すけみつ)は、日向の所領を継ぎ、佐土原城の伊東義祐(いとう-よしすけ)に繋がりました。
大江広元の4男・毛利季光からは、毛利元就。
相模国愛甲郡古庄郷司の近藤能成(古庄能成)の子である古庄能直は、母・波多野経家の娘の領地(相模国足柄上郡大友郷)を継承して、大友能直(おおとも-よしなお)となり、大友宗麟に続きます。
上杉謙信に繋がる長尾氏も、相模国鎌倉郡長尾郷が発祥です。
伊豆国狩野荘牧之郷の加藤景廉からは岩村城や苗木城の遠山氏となりました。

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