【江間次郎】の解説「鎌倉殿の13人」八重姫の嫁ぎ先である江間小次郎(江間四郎)は原小次郎(京の小次郎・源信俊)なのか?




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江間次郎とは

江間次郎(えま-じろう)は、平安時代末期の武将と考えられます。
この記事では、NHK2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が採用した説(創作)に基づいて、江間次郎をご紹介してみます。
俳優の芹澤興人さんが、江間次郎を演じられますが、伊東祐親に使える伊東家の家人(家来)とする設定になっております。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて採用されるストーリーとしては下記のようです。
あくまでもドラマ・時代劇はフィクション(創作)です。
また歴史に関しても、特に鎌倉時代など古くなればなるほど不明点が多いですので、歴史書じたいも正しいとは限りません。
その点をよくご理解のほど賜りますと幸いです。





八重は源頼朝の子を妊娠し、千鶴丸(千鶴御前)を産みますが、八重姫の父・伊東祐親に見つかってしまい子供は殺害されます。
そして、八重は父に仕えていた家来の江間次郎という武将に嫁がされました。

ここまでは、史料にも見られる展開となっていますが、ここからは大河ドラマ独特としておもしろく描かれます。

源頼朝が鎌倉に入ると、伊東祐親は江間次郎に八重を殺害するように命じます。
しかし、江間次郎は逆に八重を逃がそうとしたため、善児によって、江間次郎は殺されるようです。
その後、八重は北条義時が保護し、未亡人となりました。
八重は源頼朝を陰から見守ろうと、官女として大倉御所にて出仕するようです。
そして源頼朝との仲が復活しそうになりますが、その後、八重姫は北条義時(江間四郎・江間小四郎)に嫁いで、北条泰時を産むと言う物語になるようです。
※実際に放送を見ないと半信半疑でして、本当にこのような展開になると保証するものではありません。

北条泰時は1183年に生まれています。
史料によると、母は御所に仕えていた女房(官女)である「阿波局」(あわのつぼね)とされます。
この阿波局は、生没年・出自などは不詳の女性で、本名も不明です。
武将の妻となっている女性を、名前(本名)で呼ぶのは失礼にあたる時代です。
そのため、普段から別の名称で呼んでいることもあり、文献にも女性の名前を載せないことがほとんどです。
よって本当の名前が不明でして、阿波局と称されている次第です。





ドラマとしては、北条泰時の母・阿波局の素性が知れるとマズイので、諸資料にも記載されなかったが「阿波局は八重である」とするようです。
かなりスゴイ解釈と申しましょうか?、当然、可能性としてはゼロではありませんので、三谷幸喜さんがどのように描くのか、とても興味深いところとなります。

なお、同時代の女性として、阿波局はもう1名おります。
女優の宮澤エマさんが演じられる役名「実衣」は、北条時政の娘で北条義時や北条政子とは姉妹となりますが、吾妻鏡などではこの北条時政の娘を「阿波局」と記載しております。
北条時政の娘・阿波局は源頼朝の異母弟である阿野全成(あののぜんじょう)に嫁ぎ、4男・阿野時元を儲けました。
よって、北条義時に嫁いだ阿波局とは別の女性になることを、ご確認申し上げます。

下記は念のため、伊豆・江間荘の江間氏に関してです。

伊豆・江間荘

伊豆・江間荘は北条荘から狩野川の対岸に当たり、北条時政などの北条氏の一族が分割されて領し、江間氏を称していたと推測されます。
要するに、北条氏の一族が江間氏だった可能性があるのですが、江間氏に関する史料は少なく詳しいことは不明と言ったところです。

江間氏館

源頼朝の挙兵に協力した北条義時は兄・北条泰時がいたため当初家督を継げる立場ではありませんでした。
そのため、元服すると、父・北条時政から、伊豆・江間荘を与えられたようで、当初、北条義時は江間四郎と称しています。
鎌倉幕府が成立してからも、しばらく江間四郎と言う名前で史料などに登場しています。
他には江間、北条小四郎、江間四郎、江間殿、江間小四郎、江間四郎殿、江間小四郎殿などとあり、伊豆・北条寺にある北条義時の墓には「北條相模守従四位下 江間小次郎平義時」と彫られている次第です。

ただし、ドラマにて八重と結婚した江間次郎と言う武将になると、この北条義時(江間小四郎)とは別人になると考えられます。
実際に、NHK2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも別の武将として登場し、前述の通り、俳優の芹澤興人さんが演じられます。
なお、大河ドラマでは、伊東家の家人である江間次郎の領地を、北条荘の近くにある江間荘だと言う設定になっています。
その江間の川向うが北条荘のため、北条義時(江間四郎・江間小四郎)と、江間氏に嫁いでいた八重は、たびたび会って会話すると言う状況になっているようです。

しかし、伊東祐親が源頼朝と引き離すために、八重を江間氏に嫁がせたのに、その江間氏が江間荘の領主としますと、隣の北条荘では源頼朝が保護されているためちょっと考えにくいところです。
ともあれ、可能性としてはゼロではないといったところでしょうか?

江間小次郎(江間四郎)?

伊東祐親の長男・河津祐泰の子とされる「原小次郎」が、八重姫が嫁いだという「江間小次郎」ではないか?と、ふと可能性を感じ調べてました。
先に、結果を申し上げますと、原小次郎(京の小次郎)が、江間氏に繋がる確証は得られませんでした。
ただし、年代的な部分は適合しますので、下記の通りご紹介してみます。





完訳・源平盛衰記によると、伊東祐親の娘・八重姫は、源頼朝との間に生まれた千鶴丸が殺害されたあと「江間小次郎」を婿に取ったとあります。
伊豆での江間荘と申しますと、北条荘の横にあり、代々、江間氏は、江間四郎・江間小次郎などと称するケースが多いです。
実際に、北条義時も北条四郎義時になっていますが、この「四郎」は、北条氏の中でも、その家の家督継承者につけられる通称と言えます。
そして、吾妻鏡では、北条義時のことを「江間」「北条小四郎」「江間四郎」「江間殿」「江間小四郎」「江間四郎殿」「江間小四郎殿」など記載しており、北条義時として登場するようになるのは、後年になります。
よって、時代はともかく、北条義時が江間領主だったことは間違いなく、領内に伊豆・北条寺を創建したと考えられます。
ところが、北条寺にある北条義時の墓石の側面には「北條相模守従四位下 江間小次郎平義時」とあります。
そのため四郎としてだけではな「江間小次郎」と呼ばれていた可能性も、おおいにある次第です。

このように、江間氏を称したのは北条義時ですが、千鶴御前が殺害された際には、まだ、元服前の年少であったと考えられ、その当時から、江間氏になっていた可能性は低いとも考えられます。
しかも、八重姫の父・伊東祐親の娘が北条時政に嫁いでおり、もし、八重姫と結婚すると、母の妹を妻にすることになってしまう可能性が考えられます。

よって、八重姫が嫁いだという「江間小次郎」(江間四郎)に関しては、実在したのかも含めて、よくわからないといったところです。
仮にですよ。
仮に、伊東祐親の娘が母だと考えられる、北条義時(江間小次郎、江間四郎)が八重姫を預かったのが、はた目から見たら嫁いだと思われたと想像し、結婚ではなく預かったと言う意味になるとあり得る話にもなります。

ただし、八重姫がいた時代の伊東に「原小次郎」なる人物がいるため、小次郎つながりで注目してみました。





伊豆国司代・源仲成(源左衛門仲成)の子が、原小次郎になります。
1160年~1163年頃に誕生したと考えられます。
源頼朝が伊豆に来たのも1160年頃です。
その時期に、源仲綱が伊豆守となっているため、その後、伊豆国司代として源仲成が派遣されたようですが、派遣された時期と帰った時期は不明です。
いずれにせよ、伊豆国司代・源仲成が伊豆に来て、狩野親光(工藤親光)の娘が妻となりました。
そして、狩野親光(工藤親光)の娘は、原小次郎と、二宮御前を産んだと言う事になります。
なお、なぜ?、原小次郎と「原」性になっているのか?
小生は、源の字が、複写していくうちに、原になってしまったのではとも?感じています。

そして、任期を終えた源仲成が、京に戻る際に、母・狩野親光(工藤親光)の娘とは離縁になったようで、子供らは連れ子となり、八重姫の兄と考えらる、河津祐泰に再嫁したとあります。
この再嫁した時期も当然不明ですが、伊東祐親の嫡男が河津祐泰で、原小次郎が河津氏の養子になったと言う事になります。
そして、1176年10月、河津祐泰は、伊豆・赤沢にて、同じ工藤一族の大見氏により、殺害されてしまいますので、その前に養子になっていたのは間違えないでしょう。

そのちょうど1年前と考えられる1175年9月頃(または1173年頃)に、八重姫の事件となり、千鶴御前(千鶴丸)が稚児ヶ淵に沈められたと考えられます。
こうして、八重姫は、江間小次郎(江間四郎)の妻になったと言う事なのですが、この時、ちょうど、原小次郎(源小次郎)が、伊東氏の一族になっていたと推測できます。

そのため、原小次郎(源小次郎)が、実は江間小次郎と称していた時期があり、八重姫を妻にしたのかな?とも感じたのです。
でも、江間小次郎(江間四郎)が、原小次郎であるとは、結びつける、裏付けが、ぜんぜん、取れませんでした。
睡眠時間を削って色々な角度から調べてみましたが、伊豆・江間荘じたいは、北条荘の隣りであることも変わらず、伊東のほうに江間(江馬)という地名もみつかりません。





そもそも、伊豆にて、原小次郎(源小次郎)が、どのような状態になったのかは、伝承もなく、わからなことのほうが多いです。
いずれにせよ、原小次郎は、京の小次郎と呼ばれていることから、京に行ったようで、正式な名前は、源信俊(源左衛門尉信俊)とわかっています。

平家物語によると、河津祐泰が死去した翌年の1177年7月26日に、左衛門尉の信俊なる武将が、京から岡山・有木の別所に赴いて、配流されていた大納言・藤原成親を訪ねています。
藤原成親は平氏打倒の陰謀に加担していたとして、平清盛によって逮捕され、殺害される前に、源信俊は、会いにいったという事です。
藤原成親は妻への手紙を、源信俊に託しました。
このように、京にのぼってから、源信俊は、藤原成親に仕えていた可能性があるでしょう。

江間四郎の妻になったと言う八重姫は、ずっと伊豆にいたようですが、もし、主人が京にて留守であれば、行動も自由があったと考えられます。
1180年、源頼朝が挙兵する直前、八重姫は、北条荘に出向いたとれており、そして真珠ケ淵にて、命を絶ったともされています。

その後、源信俊の動向もわかれないのでいが、登場するのは、吾妻鏡で1193年の事です。
曾我兄弟の仇討ちがありました。
そのため、曾我兄弟の父である河津祐泰の養子になっていた経緯がある、源信俊(京の小次郎)も捕まって、鎌倉・玉縄の安達盛長の屋敷で詮議が行われました。
不幸にも、源信俊は、自害したとありますが、源頼朝は、助けたかったと後悔したともあります。

豆州志稿によると「源頼朝は八重姫が嫁いだ江間次郎を殺害し、その子を北条義時に育てさせ、元服したのちには北条義時を烏帽子親として江間小次郎と名乗らせた」とあります。

もし、江間次郎が、京の小次郎(原小次郎)のことであれば、豆州志稿に出て来る話も、符合するのですが、江間次郎が京の小次郎(原小次郎)だと言う繋がりが、見つからない次第です。





以上、繰り返しになりますが、原小次郎と江間小次郎が、同一人物であるとは、確証が1つも得られませんでした。
残念。
もし、何か情報をお持ちの方がおられましたら、教えて頂きたいところです。

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