満江御前(万劫御前)の謎に迫る~伊豆・伊東氏にまつわる女性

満江御前(万劫御前)は、平安時代末期の女性で、伊豆・伊東氏に関連しますが、その伊東氏に関する女性の名前として、複数登場します。
そんな満江御前(万劫御前)に関して、まとめてみました。
※下記写真は、川津館跡。

満江御前(万劫御前)




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中村宗平の娘

伊東祐親に嫁いだ、中村宗平の娘が、満江御前(まんごうごぜん)であるとする場合です。
確かに、中村党・中村宗平の娘が、お隣の実力者である、伊東祐親に嫁いだ模様です。
しかし、中村宗平の娘が、満江御前であると言う、裏付けは、まったくとれませんでした。

伊東祐親の娘

その伊東祐親と中村宗平の娘(満江御前)の間に生まれた娘に、万劫御前(まんごう-ごぜん)がいます。
万劫御前は、最初、父が後見していた、工藤祐経に嫁ぎましたが、父・伊東祐親が伊東荘を横領すると、離縁させられて、万劫御前は、土肥遠平に再嫁しています。
中村宗平 → 2男・土肥実平 → 嫡男・土肥遠平 と続いているのが中村党・土肥氏です。
万劫御前の母は、中村宗平の娘です。





万劫御前の「万劫」がついた呼び名は、ほぼ、伊東祐親の娘に限定されてします。
実際に、そのように呼ばれていたのかは、別として、万劫御前に限っては、伊東祐親の娘と言って良いでしょう。

河津祐泰の妻

伊東祐親の嫡男・河津祐泰の妻が、満江御前とされます。
河津祐泰の妻に関しては、横山時重の娘と言う説と、狩野親光の3娘と言う、2つの説があります。
曽我兄弟の仇討の母・満江御前と言う事になりそうですが、この満江御前が、横山時重の娘なのか?、狩野親光の3娘(工藤親光の3娘)なのか?、イマイチはっきりしていません。
更には、前述したとおり、伊東祐親の妻が満江御前だとする記述もありますが、これらも含めて、満江御前に関しても、裏付けがとれないため、恐らくは混同しているものと推測できます。
あやふやなままでも構わないのですが、河津祐泰の妻となると、曽我兄弟の仇討にも繋がるため、満江御前の出身と言うよりは、河津祐泰の妻においては、重要な要素も考えられます。
そのため、とても時間を要し、困難を極めましたが、頑張って、調べてみました。

横山時重の娘

横山時重は、横山党の一族だと考えられますが、横山時重なる武将に関しては、不詳です。
ただし、和田義盛の妻(側室)も、横山時重の娘です。
1213年、和田義盛の乱の際には、横山党が一族あげて味方していますので、横山時重(ときしげ)なる武将も、横山党の中では、宗家に近い武将であったと推測できます。
その線から探りますと、横山孝兼の子が、横山時重とあります。





弟に、藍原氏館の横山孝遠(藍原孝遠)がいるともあり、一時、横山時重が相原氏を称したともされます。
そして、横山時重の子が、横山時広でして、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広はそれまでの軍功により横山庄の所領を安堵されています。
このことからも、横山時重は、平安時代末期、横山党の当主であったと考えてよいでしょう。
しかし、横山時重の娘が、満江御前であるとは断定できませんでした。

狩野親光の娘(工藤親光の娘)

狩野茂光の4男が、狩野親光(工藤親光)になります。
この狩野親光(工藤親光)の3娘は、最初、源仲成に嫁いだようです。
源仲成(源左衛門仲成)は、伊豆国司代とあります。
国司の代理ですので、1159年、伊豆守になっている源頼政・源仲綱の家臣で、伊豆に下向したものと推測できます。
源仲綱の乳母の子が、源仲成だったようです。
その伊豆国司代・源仲成に、最初、狩野親光の娘(工藤親光の娘)は嫁いで、小次郎と二宮御前を儲けました。
しかし、その後、離別したのち、河津祐泰に再嫁したとあります。

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工藤祐経の家系図

原小次郎と二宮御前は、連れ子になっていたと考えても、おかしくはないですが、もちろん、伊東氏側で養育したとも考えられますが、まぁ、不明といったところです。
源仲成とは、4年目に離別したともされますが、離縁した理由は、源仲成が任期を終え京に戻る際に、妻や子かせ同行するのを許さなかったともされます。





ちなみに、源頼政・源仲綱の父子は、後白河法皇の第三皇子・以仁王と、平家打倒の計画を練り、以仁王の挙兵の際には、伊豆の源頼朝に、源行家が連絡した次第です。
更に、ちなみにですが、父とされる狩野親光は、のち、1189年、奥州藤原氏との阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)にて討死しています。

と言う事で、ようやく、手がかりが、出ましたね。
二宮御前の線から、河津祐泰の妻は、誰だったのか?を、探れそうですので、更に追及してみました。

二宮朝忠 (にのみや あさただ)は、中村党の一族となります。
中村宗平の4男・中村友平が、二宮郷の地頭になり、その嫡男が二宮太郎朝忠(二宮弥太郎朝定)です。
<注釈> 中村宗平の嫡男は中村重平で、次男・土肥実平は土肥氏を称し、その子・土肥遠平は小早川遠平になった。3男は土屋宗遠。
そして、二宮朝忠は、曽我兄弟の姉・花月を妻にしたとあります。
この花月(渋美とも?)は、異父姉ともされているため、曾我兄弟と花月は、父が違うようです。
と考えますと、花月姫の父は、源仲成とも考えられ、母は、狩野親光の3娘(工藤親光の3娘)と推定できます。
また、花月が、二宮御前と呼ばれていても、おかしくはないでしょう。
なお、花月尼は、河津祐泰の娘ともあり、曽我兄弟の死後、二宮・知足寺で菩提を弔ったともされます。
狩野親光の娘は、再嫁先が、河津祐泰ですので、花月(渋美)は、河津祐泰の娘に変わったと言う事になり、間違いではありません。





もうひとり、狩野親光の娘が産んでいた小次郎に関してですが、その後、京小次郎とも呼ばれており、源信俊と称したようです。
源信俊(源左衛門尉信俊)は、平家物語にも登場しているようですが、成長すると、源範頼に仕えたようです。
曾我兄弟の仇討のあと、1193年8月17日、その源範頼は、伊豆・修禅寺に幽閉されます。
その後の源信俊(京小次郎)に関しては、吾妻鏡によると、下記の通りに記載されています。

建久四年(1193)八月小廿日甲寅。
故曾我十郎祐成が一腹の兄弟、京小次郎誅被る。
參州の縁坐と云々。

1193年8月20日、源信俊も、謀反に関与した疑いで誅殺されたと言う事になります。





ただ、上記のことからも、曾我兄弟の母は、横山時重の娘である可能性が高いです。
そして、横山時重の娘と曾我兄弟は、伊東祐親の姉が産んだと考えられる、曾我祐信に再嫁しました。

これらを総合しますと、満江御前(万劫御前)に関しては、下記の通りになります。




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満江御前(万劫御前)とは?

河津祐泰の父・伊東祐親の妻は、中村宗平の娘です。
この中村宗平の娘こそ、満江御前ともされますが、前述したとおり、少しも裏付けが取れませんので、中村宗平の娘が、満江御前とは言い切れません。

源仲成に嫁いだ、狩野親光の3娘(工藤親光の3娘)は、花月(二宮御前)や、小次郎を儲けるも離別して、河津祐泰に嫁いだと言えそうです。
しかし、河津祐泰には、横山時重の娘と言う、別の女性の存在があります。





妻が2人や3人いたとしても、おかしな話ではなく、だいたい、複数の名前が出て来るケースでは、その全員が、実際にいた、ふたりとも、河津祐泰の妻であったと考えるのが妥当です。
曾我兄弟の母が、横山時重の娘や、狩野親光の娘とあっても、どちらも、正解とも言えます。
ただし、花月は、曾我兄弟と異父姉としていることから、恐らく、曾我兄弟の母は、横山時重の娘であり、河津祐泰の妻は、少なくとも2人いたと考えて良いかと存じます。
しかし、河津祐泰の妻が、満江御前と呼ばれていたと言う裏付けは、まったく取れませんでした。

下記は、曽我氏館の下屋敷とされますが、満江御前が住んだ「満江御前屋敷跡」と伝わります。(現在は公民館になっている)

満江御前屋敷

満江御前の名は、吾妻鏡にも曽我物語にも記載されていないことから、のちの創作名だと推測されます。
工藤祐経の妻になったと言う万劫御前も、満江御前も、読み方は「まんごう」と言い、同じです。
そもそも、万劫(まんごう)と言うのは、仏語で、1万劫、すなわち、きわめて長い年月と言う意味になります。
北条政子も、実際の名前は、わからないくらいでして、当時の女性の名前が、伝わる方が、珍しいことからも、万劫・満江とされても、不明といったところです。
しかし、曾我兄弟の仇討は、能・謡曲・狂言・歌舞伎などで、長年、上演されてきましたので、その母を演じる際に、何か、名前がないと、わかりにくいです。
大河ドラマなどでも、名前がわからない女性には、創作上の名前をつけます。
そのため、御前(母)は、長く仇討を待ったのではと言う期待も込めて、のち、母の名を、満江(万劫)と呼ぶようになり、それが何百年と言う歳月の間に、この母の名前として浸透したのかな?とも感じます。
以上のことから、満江御前が、誰なのか?は、断定することはできませんでした。





伊東氏に関して、女性の名前の部分では、満江御前と万劫御前と言う名称は、全く考慮しないで、考えると、わかりやすくなると存じます。
妻や娘に、満江御前と万劫御前があると、いくつかの場所で、この名前が使われているため、混乱しやすく、伊東氏が、わかりにくくなってしまいます。

曽我祐信の夫妻は、1195年に出家して、曽我氏館がある曽我別所に、大御堂を建て、曽我兄弟の菩提を弔ったとされます。
満江御前は、1198年5月28日、曽我兄弟の命日に没したともされます。

律師

河津祐泰が討死した5日後に生まれた、曾我兄弟の弟(河津祐泰の末子)がいます。
恐らくは横山党の娘が産んだと推測されますが、河津祐泰の末子は、河津祐泰の弟・伊東祐清の妻(比企尼の3娘)が引き取りました。

そもそも、大きな疑問を感じるのは、伊東祐親は、曾我兄弟に、河津氏を継がせることもなく、河津祐泰の弟・伊東祐清を、嫡子扱いにしたのか?です。
曾我祐成が、曽我氏となって、曾我家の家督を継ぐ立場になった訳でもありません。
このように考えますと、河津祐泰だけが殺害されたのには、何か裏がある?ようにも、感じずにいられません。
しかし、平安時代末期は、同じ一族でも、つぶし合いをすることが多いことから、誰かが宗家として、生き残れば、良いと言う考え方だったのか?とも、感じております。





ともあれ、曾我祐成の弟にあたる僧・律師は、伊東祐清の養子になりましたが、その伊東祐清も亡くなると、養母・比企尼の3娘が再嫁した、平賀義信(平賀武蔵守義信)の養子になりました。
しかし、曽我兄弟の弟であることから、仇討事件のあと、鎌倉に呼ばれて、6月1日から鎌倉・甘縄の安達盛長の屋敷にて尋問されたようです。
源頼朝は、工藤祐経の妻子から「兄らと同等に処分するように」と訴えられており、律師は、7月2日に自害しました。
梶原景時の報告で、自刃を知った源頼朝は、勇士の弟を助けるべきだったと後悔したともあります。
ちなみに、源頼朝は、曽我庄の年貢を免除しています。

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