河津祐泰のわかりやすい解説~怪力の持ち主でもあった伊東氏の嫡男

河津祐泰とは

河津祐泰(かわづ すけやす) は、平安時代末期の武将で、伊豆・工藤氏の一族である伊東祐親の長男として、1146年頃に生まれました。
母は、中村党・中村宗平の娘と推測できます。
生まれた年は、工藤祐継の子・工藤祐経が生まれた1147年頃と近かったものと推定できます。
元服すると、父の旧領・河津荘を相続したようで、河津祐泰と称しました。河津三郎祐安とも書く場合があります。
河津郷を相続したのは、源頼朝が伊豆に流罪となった、1160年前後よりも後の事だと推測されます。
屋敷は、伊豆・川津館と推定されます。

河津祐泰

父・伊東祐親は、本来であれば宗家筋と言えますが、工藤祐継の子・伊東祐親(河津祐親)を、一族として後見する立場になっており、娘・万劫御前を、若き工藤祐経に嫁がせました。
1161年頃には、工藤祐経が、上洛して、平重盛に仕えています。
その間に、工藤祐経が継いでいた伊東荘を、父・伊東祐親が「押領」したとあります。
工藤祐経は、伊豆に帰る事が出来なくなり、京都にて訴訟を何度行いましたが、伊東祐親の根回しもあり、実質的に、工藤氏の惣領・伊東荘を、父・伊東祐親が支配しました。
こうして、河津祐親と称していた父の旧領・河津荘を、河津祐泰(河津三郎)が相続したものと考えられます。
河津祐泰の妻は、横山党・横山時重の娘(満江御前?)であり、子には、河津祐成、河津時致、原小次郎、律師などが見受けられます。
ただし、河津祐泰の最初の妻は、狩野親光の3娘であり、その連れ子が原小次郎(源信俊)、二宮御前と考えられます。

なお、河津祐泰(河津三郎助通)は、力持ち・豪力の者として、知られていたようです。



京の大番役で、3年程留守にし、伊東に戻った伊東祐親は、八重姫が産んだ子を見て激怒します。
伊東祐親は、娘の八重が源頼朝の子・千鶴丸(千鶴御前)をもうけていたのを知ったのです。
そして、伊東祐親は、5人の郎党に命じて「千鶴丸を松川の奥の白滝の底に柴漬けにして沈めよ」と命じ、伊東・稚児ヶ淵にて殺害したとされます。
八重姫も、江間小四郎(江間四郎)に嫁がせたとされますが、その後の八重姫に関しても、色々と諸説あります。

吾妻鏡によると、1175年9月頃、父・伊東祐親が、伊東に流刑となっていた源頼朝を殺害しようとしますが、次男・伊東祐清が源頼朝に知らせたため、源頼朝(29歳)は走湯権現(伊豆山神社)へ逃れたとあります。
<注釈> 伊東祐清の妻は、比企尼の3娘。比企尼は、源頼朝の乳母である。
このあと、源頼朝は、北条時政の保護を受けて、蛭ヶ小島(ひるがこじま)に移り住んだ可能性があり、1177年頃、北条政子と結婚したと言えます。
曽我物語によると、伊東祐清の烏帽子親が、源頼朝であった事もあり、助けたようで、北条時政を頼るように薦めたとあります。
<注釈> 北条時政の正室は、伊東祐親の娘で、1163年に北条義時を産んでいる。



父・伊東祐親はこの前後に出家し、伊東入道祐親と呼ばれています。

伊豆・巻狩り

その翌年、1176年10月、伊豆・奥野(奥野ダム付近)にて、流人の源頼朝を招待するような、伊豆・巻狩りが3日3晩、行われました。
主催したのは、曽我物語によると、大場平太影信とあり、源頼朝に喜んでもらおうと、開催したようです。
この大場平太影信なる武将は、鎌倉一族(大庭氏)の大庭平太景信(大庭景信)で良いでしょう。
弟に、大庭景義(かげよし)と、俣野景久がいます。



その際に、余興として、源頼朝の前で、相撲大会が行われたと言います。
21連勝と、日本一の名を得ていた俣野景久(俣野五郎)を、河津三郎祐泰が、破りました。
この時の、決まり手とされる「かわづがけ」の名を残しています。

河津祐泰

この巻狩りから帰る途中とされるまず、伊豆高原にて、事件が起こります。

京の工藤祐経から相談を受けていた、工藤氏一族である大見成家/大見小藤太(おうみことうた)と、八幡行氏/八幡三郎行氏(はつまさぶろう)の兄弟は、伊東祐親の命を狙おうと、狙っていました。
2人は、伊豆・赤沢の椎の木三本の地に隠れていたようです。

最初に通行したのは、波多野義景、2番目が大庭景親、3番手は海老名弘綱、4番目は土肥實平、間をあけて、兵衛佐殿(源頼朝)が通り過ぎたとあります。
続いて来たのが、伊東祐親と、河津三郎であり、大見成家と八幡行氏は矢を放ちました。
先行して馬に乗っていたとされる、河津三郎は、八幡三郎が放った矢が、腰を貫きました。
ただちに、河津三郎(河津祐泰)は、応戦しようとしましたが、力尽きて落馬したとあります。河津祐泰、享年31。
下記は、河津祐泰の血塚

河津祐泰の血塚

少し遅れてきた伊東祐親を狙ったのは、大見小藤太(おうみことうた)でしたが、矢はわずかにそれて失敗しました。
河津三郎は、刺客の姿を父・伊東祐親や土肥実平に伝え、残される妻子の行く末を案じつつ、息を引き取ったと伝わります。
大見成家と八幡行氏は、弟・伊東祐清の軍勢に討たれています。



曽我物語によると、河津祐泰の妻(横山時重の娘?)は、5歳の河津十郎(河津祐成)、3歳の河津五郎(河津時致)の2人を連れて曾我祐信と再婚しています。
<注釈> 曾我祐信の母は、伊東祐親の姉とも。
こうして、曽我祐成・曽我時致の兄弟は、再嫁先の曾我祐信のもとで養育されました。
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工藤祐経の家系図

河津祐泰が討たれた5日後に生まれた末子は、弟・伊東祐清の妻(比企尼の三女)が引き取り、のち、比企尼の三女が再婚した平賀義信の養子になったともされますが、出家して律師と称していたともあります。
この末子(律師)も、曾我兄弟の仇討ちに連座し、甘縄にて処刑されることになります。



1180年、源頼朝が鎌倉を制圧すると、敵対していた伊東祐親と、その子・伊東祐清は、富士川の戦いの際に、捕らえられて、助命を断った伊東祐親は自刃しています。
伊東祐清も、源頼朝の挙兵では、心ならずも、父に従っていたようで、源頼朝のかつて命を救ってくれた恩義もあり、恩賞を与えようとしました。
しかし、伊東祐清は、父が死を選んだ以上、自分も死を願ったともされます。
領主がいなくなった伊東荘は、源頼朝に接近した、工藤祐経が取り戻す形となり、1193年、曾我兄弟の仇討ちへと繋がりました。

伊東氏としての、河津祐泰の墓は、伊東・東林寺の裏山にあります。

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