愛甲郡毛利荘を領した源氏~源義広・源頼隆・森頼定の解説

愛甲郡毛利荘の領主としては、平安時代、まず、源義隆がいます。
源義隆(みなもと-の-よしたか)は、源義家(八幡太郎義家)の7男で、相模国毛利庄(神奈川県厚木市)を領し、森冠者と呼ばれています。
この「森」と言うのは称号のようなものです。
源義隆(陸奥六郎義隆)は1159年、平治の乱で、源氏の棟梁・源為義の長男・源義朝に従って参じましたが、敗走した際に、堅田にて、源義朝の盾となり討死しました。
源義隆がかばった、源義朝は、源頼朝の父と言う事になりますが、その後の逃走先の尾張にて、源義朝も命を落としています。





源義隆の長男・源義広(みなもと-の-よしひろ)も、森冠者と呼ばれているため、毛利荘で生まれたと考えられます。
<注釈> 同時代、源為義の3男も、源義広(志田義広)と言うため、混同しないよう注意。

源義隆の次男・源頼隆は、父が討死した際に、まだ生後50日余りだったとされ、平氏に捕縛されると、下総に配流となり、千葉常胤に預けられました。
源義朝の子・源頼朝は、伊豆の伊東氏に預けられ、源義経は僧侶となって鞍馬寺に入ったのと同じように、源頼隆も流罪になったと言えます。

そして、毛利荘は、清川村に毛利屋敷を構えたとされる、毛利景行が領したようです。

約30年、どのような流人生活を送ったのかは、伝わっていませんが、転機が訪れます。
1180年、伊豆の源頼朝が挙兵すると、毛利荘の毛利景行も参じています。
しかし、敗戦し、源頼朝は安房に逃れて、千葉常胤を頼りました。
そのとき、千葉常胤は、源頼隆(22歳くらい)と伴って、源頼朝と面会し、源頼隆を軍勢に加えるよう、願いでました。
源頼朝は、自分と同じく源氏の孤児であることから、千葉常胤よりも上座に据えるなどして、厚遇したとされています。

兄の源義広 (毛利治部丞)の動向に関しては、不詳ですが、源頼朝が鎌倉を制圧すると、源義広らは毛利荘に復帰したようです。
源義広は、毛利義広とも称しており、千葉氏の世話を受けていた弟・源頼隆も、毛利頼隆とも呼ばれています。





兄はすぐに亡くなったのか?、鎌倉幕府では、源頼隆(毛利頼隆)の動向が良く知られます。
源頼隆(毛利頼隆)も、若き日は毛利冠者、毛利三郎、森冠者などと称していたようです。
1185年9月3日、源頼朝は、鎌倉に勝長寿院を建立し、父・源義朝の遺骨を埋葬します。
その遺骨を運ぶ輿は、源氏一門から選ばれており、源頼隆と平賀義信が運びました。
そして、御堂の中へは、源頼隆・平賀義信・大内惟義だけが、参列を許されています。

源頼朝の死後、所領の信濃国若槻庄に下ったようで、源頼隆(毛利頼隆)は、若槻頼隆と称されました。
また、従五位下・伊豆守に叙せられており、出家後は、森蔵人入道西阿となっています。
信濃・若槻荘では、若槻里城を築いたものと考えられます。

若槻頼隆の次男・森頼定は、相模国毛利庄を継承して、森姓を称しており、安嘉門院判官代などを務めました。
森頼定の妻は、小鹿島公業の次女・薬上(やくじょう)ともあります。
1247年、宝治合戦の際に、若槻氏は鎌倉にいなかったため、巻き込まれなかったようです。
森頼定は、1257年に死去。

森頼定の子には長男に森義泰(森太郎義泰)、次男に森定氏(森二郎定氏、森定時)、三男に森頼泰(森三郎頼泰)、四男に上野朝氏(上野四郎朝氏)、五男に左衛門尉・森泰朝(森五郎泰朝)、八男に森義定(森八郎義定)、九男に森頼明、10男に戸田信義、11男に森義通(森与一義通)がいます。

この毛利荘の森氏からは、戦国時代に織田信長の重臣として活躍した、美濃・金山城の森可成、森長可、森蘭丸、津山城の森忠政などが知られます。

兄・源義広 (毛利治部丞)からは、毛利義昭と繋がっていますが、早くに亡くなったのか?、振るっておらず、子孫は美濃・土岐氏などに仕えています。





毛利荘に関しては、1213年、和田義盛の乱にて、横山党や愛甲氏が没落しますが、毛利景行の毛利一族も討死し、毛利荘は大江広元に与えられました。
そして、4男・毛利季光が、毛利荘を領したようで、飯山に、館を構えた模様です。
毛利季光の子孫は、戦国時代の毛利元就などが知られます。

毛利荘内の古荘からは、大友氏の租である大友能直が出ており、戦国大名・大友宗麟を輩出しています。

鎌倉初期の日本の人口は、約600万人くらいと考えられていますので、東国の武士も、多くは、顔見知りであったかも知れません。

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