泉親衡(いずみちかひら)の解説【泉親衡の乱】わかりやすい経緯も詳しく




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泉親衡とは

泉親衡(いずみ ちかひら) は、鎌倉時代の鎌倉幕府御家人で、信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市)の武将・泉公衡の子として、1178年頃に生まれました。
通称は、泉小次郎と言い、怪力の人物としても知られます。
泉氏は、清和源氏・満快流の源為公が先祖である信濃源氏で、戦国時代に片桐且元を輩出した片桐氏と同族のようです。
小山経隆の娘が、信濃源氏の泉公衡に嫁いでいることから、泉親衡の母は、横山党・小山経隆の娘とも推測されます。
下記は横浜市にある泉親衡の舘跡。

泉小次郎親衡

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での泉親衡を演じた俳優さん・配役ですが、生田斗真さん演じる源仲章が京から派遣された工作員のような感じで、泉親衡に扮している演出となったようです。

1204年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家が、修禅寺に幽閉となり、北条政子と北条義時らにより、源実朝が擁立されると、幕府での北条氏の権力が高まります。
そのため、源氏の御家人からは不満が募る状態となって行きます。

泉親衡の乱

1213年2月、信濃国・泉親衡の郎党・青栗七郎の弟である僧の安念坊が、鎌倉・甘縄邸の千葉成胤を訪ねますが、関東中を歩き回っていたようです。
そして、源頼家の遺児・千寿丸を擁して挙兵し、執権・北条義時を打倒するよう協力を求めました。

千寿丸(栄実)の母は法橋・一品房昌寛の娘であったので北条氏との血縁が薄く、鎌倉幕府の将軍になれば、北条氏を排除できると考えたようです。

阿静房安念(安念法師)は、千葉成胤(千葉介成胤)は、安念坊を捕縛して、北条義時に差し出したため、大江広元(大江廣元)らが協議しています。
1213年2月15日、山城判官・二階堂行村の取り調べを受けた安念坊の自白により、泉親衡(泉親平、泉小次郎)に同調している御家人が、張本(主体)130人余、伴類(仲間)200人にも及ぶことがわかります。
この中には、鎌倉幕府創設に大きく貢献した、和田義盛の子である、和田義直・和田義重、甥の和田胤長も含まれていることがわかりました。

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)と言います。





北条義時は、ただちに謀反人の捕縛を金窪行親、安東忠家、小山朝政、二階堂行村、結城朝光が指揮しました。
こうして、鎌倉で探索が始まり、和田義直、和田義重、和田胤長、一村近村、籠山次郎(小宮山次郎)、上田原平三の父子、狩野小太郎、宿屋重氏(宿岩重氏)、園田成朝、渋河兼守、磯野小三郎、保科次郎、粟沢太郎の父子、木曽滝口の父子、八田知基、伊勢国の金太郎、臼井十郎、狩野又太郎ら十数人が捕まっています。

要するに、若い御家人を中心に執権・北条義時に対して大きく反感を抱いていたことが伺えます。

和田義直は、伊東荘・伊東祐長に預けられ、和田義重は伊東祐広(伊東祐廣)へ、和田胤長は金窪行親・安東忠家が預かりな、処遇が下されます。
2月18日、上條時綱(上條三郎時綱)が預かっていた薗田成朝は、見張りの目を盗んで逃亡し、僧侶・敬音の宿舎へ向かいました。
僧の敬音は、園田成朝に出家を勧めましたが「名のある将師は再起を期して逃れるのが本来の姿であり、また国司になるのが夢なので、それまでは出家はしない」と言い、その後、行方をくらましたとあります。
その話を聞いた源実朝は、おもしろがり、2月20日に、薗田成朝の罪を許すと、早く探し出して恩赦を与えよと命じています。





比企能員の妻の父・渋河兼守(渋川刑部六郎兼守、渋川刑部丞)は、安達景盛(安達右衛門尉景盛)に預けられていましたが、2月25日死刑が決定し翌朝に処刑されることになりました。
しかし、無実の罪だと、和歌十首を詠んで荏柄天神(荏柄天神社、荏柄聖廟)に奉納したと言います。
それを工藤祐高(工藤藤三郎祐高)が見つけて急ぎ大蔵御所に届けると、和歌を愛する将軍・源実朝はひどく感じ入り、良き歌に免じて、2月26日朝、渋河兼守の罪を許したとあります。
渋河兼守(渋川兼守)は、この恩赦に感謝して、大蔵館の東を流れる川に橋を作って感謝の心を表したと伝わります。
その橋は「歌の橋」と呼ばれ、現在、鎌倉から朝比奈に通じる、金沢街道に歌の橋旧跡碑があります。

歌の橋

3月2日、泉親衡が、北条執権邸や、大蔵御所からもすぐ近くにある「筋替橋」の付近に隠れているとの噂が報告されます。
北条義時は、ただちに、工藤十郎を派遣しました。
泉親衡は、橋のたもとで、寝ていたともされます。
剛腕の持ち主である泉親衡は、工藤十郎や郎党らを返り討ちにして、郎党の青栗四郎・保科次郎・籠山次郎・市村近村、粟沢太郎らと逐電しました。
鎌倉中が大騒ぎになり、その後、泉親衡の行方は不明となっています。
ただし、鎌倉に潜伏していたとは、とても考えにくいところです。





なお和田義盛は、1209年から幕府に「上総守」(上総国司)になりたいと申請しており、上総国の領地・伊北庄(大多喜町?)にいて鎌倉を留守にしてしまた。
3月8日、鎌倉に戻った和田義盛は、源実朝に子息や甥の赦免を願い出ます。
この時、子の和田義直、和田義重は、和田義盛のこれまでの貢献度から許されて、解放されることになりましたが、甥の和田胤長は、作戦を立てたひとりだとし許されませんでした。
そのため、翌日、和田義盛は、三浦一族98名を連れて、甥・和田胤長の赦免を求め、再度、大蔵御所を訪問しています。
しかし、和田一族らが見守る中、御所の南庭にて、縄で縛られた面縛の状態の和田胤長に対して、陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市)に配流の裁定が下り、和田一族に恥辱を与えたとあります。
<注釈> 面縛(めんばく)とは、両手を後ろ手にして縛り、首にも縄をかけると言う、武士にとって最大の恥辱とされていた。前代未聞の恥辱なりともある。

実際問題、捕まった御家人の中で、和田胤長以外は放免されたようであり、和田氏だけが未遂に終わった泉親衡の乱に関して、一番重い責任を取らされた形となったようです。
3月17日、和田胤長は、二階堂行村(工藤行村、山城判官行村)の陸奥国岩瀬郡に流されました。

3月19日、夜になって、横山党の横山時兼(横山右馬允時兼)が、鎌倉の和田義盛の屋敷を訪れ、甲冑に身を固めた横山党50名があたりを徘徊したため、源実朝は伊賀朝光を派遣して自粛を求めたとあります。
<注釈> 伊賀朝光の妻は二階堂行政の娘で、伊賀朝光の娘・伊賀の方は、北条義時の継室。

横山党・小山経隆の娘が、泉親衡の父・泉公衡に嫁いでいる可能性があることからも、和田義盛よりも戦力がある横山党が、謀反の黒幕?とも個人的に感じております。

3月21日、父の流罪を悲しんだ和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が病気になると、和田義盛の孫・和田朝盛が病気見舞いを行ったが、その晩に亡くなりました。
そして、和田胤長の妻・天留(横山時兼の妹、27歳)は、西谷の和泉阿闍梨のもとで出家しています。

3月25日、女官・五條局を介して源実朝の許可も得て、大蔵御所の左隣にある荏柄天神社の前にあった和田胤長の屋敷が、和田一族に払い下げられました。
当時の慣例では、流罪になった者の屋敷・土地は、一族に引き渡されることになっていました。
和田義盛の代官として知られた久野谷弥次郎が住んだようです。
しかし、一等地だったためか?、4月2日、北条義時は、泉親衡の乱にて功績のある、金窪行親と安東忠家に和田胤長の屋敷を与えることにし、久野谷弥次郎を追い出してしまったとあります。

以後、和田義盛は御所に出仕しておらず、北条義時との対立は決定的となり、和田氏は挙兵の決意をします。
しかし、鎌倉の市中にて、おいそれと決起する訳にもいかず、まずは横山党など賛同者を増やす準備をしたようです。





将軍・源実朝の近くで仕えていた、和田朝盛(和田新兵衛尉朝盛)は板ばさみになり、4月15日、源実朝に弓は引けないとして出家し、京都へ向けて旅立ちました。
4月16日、和田義盛は、すでに死んでいても連れ戻せと、和田義直に命じ、4月18日、駿河国手越の駅から和田朝盛が鎌倉に戻っています。
和田朝盛は、軍勢を指揮できる有能な武将として知られていたこともあり、この経緯が鎌倉中に知れ渡ると、開戦が近いと言う噂となり、鎌倉街道を駆け巡る御家人も増えたとあります。

4月24日、和田義盛は、以前から和田家に仕えていた祈祷僧・尊道房を鎌倉から逃げさせましたが、出身の伊勢に向かったため、祈祷のため伊勢神宮へ行かせたらしいとの噂が立ったようです。
4月27日、事態を憂慮した源実朝は、宮内兵衛尉公氏を和田義盛邸へ派遣しています。
和田義盛は「反逆の気持などない」と答えましたが、列席していた古郡保忠や朝比奈義秀らが兵具を整えて列座していたと、宮内公氏(宮内兵衛尉公氏)は報告しています。
そのため、源実朝は、夜にも、宮内忠季(行部丞忠季)を、和田義盛邸に派遣しました。
和田義盛は下記のように答えています。

将軍家に対しては何の遺恨も抱いていない。
北条義時の傍若無人な言動について、説明を求めるべきと考える若者たちが集まっているので、私(和田義盛)はこれを諌めているが、既に決意が固く、説得の及ぶところに非ず。

4月29日、源実朝の正室・坊門信子の女官(佐渡守親康の娘)を、深夜に忍んで誘い出した罪にて、駿河国富士郡で謹慎となっていた北条朝時(北条義時の次男)が、飛脚により、鎌倉に呼び戻されています。





1213年5月2日、鎌倉の和田義盛邸の近くに住む、筑後朝重(筑後左衛門尉朝重)が「和田屋敷に軍兵が集結している」と、大江広元に報告しました。
来客を迎えて酒席にいた大江廣元は、直ちに御所に駆け付け、北条義時に報告したのでした。
こうして、和田合戦となりましたが、和田合戦に関しては、別途、詳しく記載しているため、ここでは割愛させて頂きます。

泉親衡の領地は、北条氏に没収され、信濃・小泉荘の室賀郷は、信濃・善光寺に寄進されています。

さて、泉親衡に擁立されたという源頼家の3男・源千寿丸は、尼将軍・北条政子の配慮にて、臨済宗の開祖・栄西に預けられ、栄実(えいじつ)と言う僧侶になりました。
しかし、翌1214年、京都に滞在していた際に、和田氏の残党にて、再び反乱の盟主に擁立され、六波羅探題を襲撃しようとしました。
これも、計画段階で鎌倉幕府側に露見し、一条北辺の旅亭にて、鎌倉勢の襲撃を受けて、栄実は自刃したとあります。享年14。

和田合戦で武勇を発揮した、和田一族の朝比奈義秀も、合戦後に消息不明となっています。

泉親衡のその後

相模原の井上家に伝わる伝承によると、行方不明とされている泉親衡は、相模原の番田に知人がいたので隠れ住み、1214年、病死したとあります。
<注釈> 泉親衡の妻は、井上経長の娘?ともあり、関連性も考えられる。(泉親衡の母は、小山経隆の娘とされるため、井上経長は、横山党・小山経隆と同じ、横山党の出の可能性も考えられる)

討手から逃れた泉親衡と千寿丸は、武蔵国・三芳野の豊田景快(豊田源兵衛景快)を頼り、千寿と共に出家したともあります。
泉親衡は静海と号し、1265年5月19日に、88歳で没したとされ、静海の宝篋印塔が、川越・最明寺(戸泉家の墓所)にあるようです。
ちなみに、5代執権・北条時頼が、源頼家の子・千寿が、瑶光房道円と号して、粗末な草庵を結んでいることを知り金壱百五拾貫を寄付し、源家供養の寺を建立し瑶光房道円を別当とし700石を与えたのが、最明寺と言う事になります。





信濃・飯山城にて残っており、上杉景勝の重臣・岩井信能など、北信越では、泉氏の子孫を名乗る武家がいます。

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