金窪行親の解説【鎌倉殿の13人】北条義時の側近として活躍した御内人

目次 contents
  1. 金窪行親とは

金窪行親とは

金窪行親(かなくぼ-ゆきちか)は、鎌倉時代の武士で、武蔵・金窪城(埼玉県児玉郡上里町金久保)が本貫ともされていますが、確証はないようです。
通称は金窪太郎、金窪兵衛尉、金窪左衛門太夫、金窪左衛門尉。
金窪氏は、北条氏得宗家の家来(御内人)と言え、執権・北条義時の側近として頭角を現します。

金窪行親

武士にも大名・家臣・家来と身分がありますが、金窪行親は、特定の家に仕える家来に相当します。
鎌倉時代には、御家人や郎党と言う事になりますが、そのうちでも、特定の個人に仕えた場合には「御内人」と呼ばれました。

金窪行親は、建仁3年(1203年)、比企能員の変で武功をあげ、残党を追捕も行っています。
比企一族が滅亡すると、後ろ盾を失ってた源頼家は、北条時政から追放され、伊豆・修善寺に幽閉されます。
そして、翌元久元年(1204年)7月18日に、入浴中に北条家の者によって襲われて、亡くなりました。
<注釈> 源頼家を殺害したのは、北条氏の家来の誰なのかは、不明ともありますが、金窪行親ともされます。

この源頼家が修善寺で殺害された6日後、鎌倉にて、源頼家の残党が謀反を起こそうとしたとして、金窪行親が反乱を未然に防いでいます。
この源頼家の残党13名も、誰なのかは不明ですが、修善寺の伝承では13人だったとあり、現在、修善寺に13人を供養する「十三士の墓」が、源頼家の墓の近くにあります。

建暦3年(1213年)には、泉親衡の乱では、安念法師を捕縛して尋問し、関与した約200名が一斉に逮捕されます。
そのうちの最重要人物だった和田胤長(わだ-たねなが)を、安東忠家と共に捕縛し、尋問しました。
その和田胤長(和田義盛の甥)の没収された所領を、金窪行親と安東忠家が分割相続したのがキッカケで、和田義盛の乱に発展します。
1213年5月、和田合戦の翌日には、金窪行親らが、和田義盛らの首を検分しました。
このように、北条義時から大変信頼を得ている武将と言えるでしょう。
和田義盛の後任として、北条義時が侍所別当に就任すると、金窪行親は、次官である所司(しょし)になりました。
侍所(さむらいどころ)は、警察と軍事の機関で、そのトップが北条義時となり、ナンバー2が、金窪行親と言う事になります。
そして、和田合戦の記録を整理したほか、恩賞として、和田氏の所領だった陸奥国金窪も拝領したようです。(埼玉の金窪を拝領したと言う記述も見受けられるが、それは誤りか?)
この時から、金窪行親と称した可能性も、捨てきれません。

承久1年(1219年)には、駿河・阿野荘で挙兵した阿野全成の遺子・阿野時元は、将軍になるべく深山に城を築き準備を進めます。
そこを、命じられた金窪行親が奇襲して、阿野時元を討ち取っています。
このように、源氏の血統は、徹底的に粛清されています。

北条義時の死後も、鎌倉幕府3代執権・北条泰時に仕えていましたが、1241年頃から、金窪行親の名が出てこなくなります。
金窪行親の子孫は、不明で、以後の金窪氏は確認できません。

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