阿野時元のちょこっと解説~挙兵したとされる阿野荘の領主で阿野全成の子




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目次 contents
  1. 阿野時元

阿野時元

阿野時元(あの-ときもと)は、鎌倉時代初期の武将で阿野全成の4男で阿野隆元とも言う。

父・阿野全成(あの-ぜんじょう)は源頼朝の異母弟(源義経の同母兄)。
母は阿波局(北条時政の娘、鎌倉殿の13人では実衣)

兄に阿野頼保、阿野頼高、阿野頼全がいるがいずれも妾の子だったようで、正室・阿波局が産んだ阿野時元が嫡子となった。
弟に阿野道暁、阿野頼成、姉妹に四条隆仲の妻、藤原公佐の妻がいる。





1203年6月23日、源頼家への謀反の疑いで捕らえらた父・阿野全成が八田知家に手により常陸で誅殺される。享年51。
翌6月24日には、在京していた兄・阿野頼全を殺害するため、鎌倉からの使者として大江能範が上洛。
京にて名を受けた源仲章佐々木定綱は、7月16日に、京都・東山延年寺にて兄・阿野頼全を殺害した。
なお、源頼家は阿波局の引き渡しも北条氏に求めましたが、母・北条政子が拒否して妹を守っている。

また、嫡子であった阿野時元は、北条時政や北条政子の尽力もあり死罪は免れ、父の遺領・阿野荘(静岡県沼津市井出)にて隠棲。

井出・大泉寺

北条時政は、この年の9月、将軍・源頼家の外戚である比企能員を暗殺し権力を高めた。
そして、源頼家は修禅寺にて謹慎となったあと殺害され、鎌倉幕府・第3代将軍に源実朝が就任している。

1205年には、畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)の二俣川の戦いにて畠山重忠らを討ち取った。
さすがに無理があったため北条時政は失脚。
打開しようと継室・牧の方と共に将軍・源実朝をも殺害し、娘婿の平賀朝雅を奉じて政権を奪おうとした。
さすがに北条義時と北条政子も反感を持ち、源実朝を奪って保護すると御家人の多くを味方にしている。
そして、1205年閏7月20日に北条時政の執権職ははく奪され、牧の方と共に鎌倉から追放して、伊豆の本領に幽閉。
これら紹介してきた北条時政の謀略の多くは、牧の方の発案だとも言われている。
山内首藤通基(山内首藤経俊の子)によって京にいた平賀朝雅は暗殺された。

こうして、1209年までには北条義時が政所別当に就任し、大江広元安達景盛(安達盛長の嫡男)らが協力し、従三位となった源実朝が政務を取るようになった。

1213年、和田合戦にて和田義盛を滅ぼすと、北条義時とは侍所別当も兼任し「執権」(2代執権)と呼ばれた。

1219年正月27日、鶴岡八幡宮での将軍・源実朝が右大臣拝賀にて、後鳥羽上皇のスパイともされる源仲章も参列しているなか事件が発生。
雪が積もる中、亡き源頼家の子・公暁(鶴岡八幡宮寺別当)が鎌倉幕府4代将軍の座を狙い、源実朝を暗殺した。





これを受けて1219年1月、次期将軍の座を狙い、遺児・阿野時元は一族と挙兵し深山に城を築き準備を始めた。
しかし、思うように兵が集まらず、執権・北条義時の命を受けた金窪行親に討ち取られたと言う。
ただし、僅かな兵力で挙兵するのは、あまりにも無謀なため、 鎌倉幕府の新たな危機を乗り越えるため北条義時・北条政子による計画的な排除とする説もある。
源実朝が鶴岡八幡宮にて暗殺されてから、わずか十数日後のことであった。

静岡県沼津市の興国寺城からほど近い井出の大泉寺(静岡県沼津市井出)に、阿野時元の墓と、父・阿野全成の墓がある。
墓の位置は大泉寺の境内に入り左手奥のほう。

阿野時元の墓と、阿野全成の墓

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、阿野全成を俳優の新納慎也さんが演じらる。
実衣(阿波局)との子・頼全(らいぜん)は、俳優の小林櫂人(こばやしかいと)さん。
そして、この記事にてご紹介している阿野時元の役は俳優の森優作さんとなる。

阿野荘の一部は阿野時元の姉妹と結婚していた藤原公佐が継いで阿野公佐となり、この阿野氏は貴族として明治まで続いた。
阿野時元の子・阿野義継も処刑されず生き残ったようだがのち阿野氏は新田義貞によって消滅したとされる。

そして、後鳥羽上皇の思惑は募り、1221年、承久の乱へと向かうのであった。





阿野時元が死去した際の母・阿波局の動向は不明であり、その後、1227年に亡くなっている。

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