比企郡・光福寺の宝篋印塔にある藤原光貞の可能性を調べてみた

目次 contents
  1. 藤原光貞とは

藤原光貞とは

埼玉県東松山市岡にある「光福寺」(こうふくじ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、国の重要文化財に指定されています。
高さ2.1mもあり、鎌倉後期を代表する宝篋印塔になっているそうです。

収蔵庫の中に収められ、ガラス越しに見学することができる、宝篋印塔には、下記のような銘文が入っています。

奉造立宝篋印塔一基
右塔婆者大日本国武州比企
玉太岡四国山光福禅寺沙門
鏡空了圓元亨癸亥
仏成道日起之誌之矣
当寺大檀那比丘尼妙明
藤原光貞朝臣
施主沙彌閣阿

建立したのは沙彌閣阿で、光福寺の大檀那である比丘尼妙明と、藤原光貞朝臣の供養とあります。
比丘尼妙明と藤原光貞は、沙彌閣阿の母・父とも受け取れます。



沙彌 (しゃみ) とは、年少の見習い男子修行者であると言う意味。
女子だと沙弥尼(しやみに)になります。
となると、閣阿と言う年少僧が、父・母とも考えられる、光福寺の大檀那でもあった比丘尼妙明と、藤原光貞を供養するために建立したと考えられます。

比丘尼(びくに)と言うのは、出家した尼(女性)のことを言いますので、名前ではない可能性が高いです。
妙明と言うのは、その女性が出家したあとの法号だと存じますが、日蓮宗の場合、女性には必ず「妙」の1字がつきます。
よって、比丘尼妙明は、出家した妙明尼と言えますが、さすがに明と言う1文字だけでは、どの女性なのか、たどり着くのは難しいです。
比企郡にあるため、有名な比企尼から、比企尼妙明と書くのは、大変な間違えになる可能性がありますので、誤記にならないよう、細心の注意が必要です。
ただ、比企一族も、のち日蓮宗となって、比企能員の妻が、妙本となっており、鎌倉の比企氏菩提寺も妙本寺と称していますので、間違えたくなる気持ちは、よ~くわかります。

ひとつ、気になるのは、宝篋印塔での記載順番が、藤原光貞よりも、比丘尼妙明が先に明記されている点です。
鎌倉時代後期の宝篋印塔に刻まれている文字が、しっかり判読できるのも、非常に珍しいことなのですが、単純に考えますと、比丘尼妙明のほうが、藤原光貞よりも、格上の出自であったため、先に名前があるとも考えられます。
となると、光福寺がある比企郡にて、有名なのは、吾妻鏡にも何度も登場する比企尼が、どうしても、気になります。
私も心の中では、比企尼のことであって欲しいと願いましたが、比丘尼妙明が、比企尼であるとは、ぜんぜん、結び付かないのが現状です。

藤原光貞も、難しいです。
恐らくは、武蔵では、藤原性ではなく、土地の名前から別の名前が一般的になっていたものと推測します。
しかし、先祖が藤原氏なので、このように藤原光貞と言う明記になっているものと考えられます。



宝篋印塔にある1323年に近い「光貞」と言う武将ですと、下記のような人物がいます。

石川光貞 (1269年没)
二階堂光貞 (1336年没) 下総守
土岐光貞 (1281年没)
黒岩光貞 (生没年不明)
伊賀光貞 (生没年不明)

石川光貞(いしかわ みつさだ)の妻は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の娘。
格式から考えますと、可能性があります。
ただ、本拠地が陸奥・三芦城(福島県石川町)でして、沙彌閣阿が、2人の子だったとしたら、なんで武蔵・光福寺の少年僧になったのか?
比企郡と縁があった可能性が低いように感じます。

土岐光貞も、妻が、鎌倉幕府第9代執権である北条貞時の娘でして、格式は充分です。
また、北条貞時の側室には、安達泰宗の娘・覚海円成(山内禅尼)がいますので、比企郡との縁も感じます。
更に、北条貞時が亡くなったのは、1311年ですので、ちょうど、年代も合います。
しかし、土岐氏は、基本的に源氏であるため、藤原性を称するとは考えにくいところです。

二階堂光貞は、没年が、1336年であり、宝篋印塔が建てられた1323年の時には、存命であると考えられるため、可能性は低いでしょう。

黒岩光貞は、児玉党の一族に越生氏がいて、成瀬氏、黒岩氏、岡崎氏の三氏に分かれています。
その黒岩氏には、確かに、黒岩孫太郎光貞と言う武将がいるのですが、生年も没年も不明でして、時代が合うのか?、また、比企郡を領していたのか?も疑問が残ります。
系図では、越生有平 – 黒岩有光(黒岩次郎有光) – 黒岩家光 – 黒岩有長 – 黒岩光貞 と繋がっています。
児玉党・黒岩氏の本拠は、埼玉県入間郡越生町黒岩でもあり、だいぶ離れている次第です。
氏祖は、有道惟能であり、藤原伊周の家司であったため、藤原氏とも称した可能性は感じられます。



伊賀光貞は、佐藤公光から始まる伊賀氏ですので、もとは藤原氏になります。
伊賀朝光の娘・伊賀の方が、北条義時の継室になったことでも知られる伊賀氏で、伊賀頼泰の子が、伊賀光貞になります。
その伊賀朝光が伊賀守になったことから、藤原氏から伊賀姓を称するようになったとされます。
1294年に、伊賀頼泰から伊賀光貞に、譲渡された領地の中に「武蔵国比企郡瓜生殿村」が見受けられますので、伊賀光貞は比企郡を領しています。
瓜生(うりゅう)が、埼玉県のどこにあったのか?は、調べても不明ですが、上記でご紹介し武将の中で、唯一、比企郡に領地があった可能性があります。
瓜生殿となっていますので、そもそも、瓜生殿と言う地名は無かった可能性も考えられます。
と言う事で、瓜生に関しては、わからないのですが、藤原光貞は、伊賀光貞の事である可能性があると推測致しております。

余談ですが、調べている途中で、下記のような話も見つかりました。

保元物語上巻四章にて・・・。

崇徳院側が東三条に篭り、高松殿を伺っている為、源義朝が、藤原光貞を捕らえ尋問した。

とあります。

翻訳と経緯を含めてご紹介しますと、1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、後継者争いとなり、崇徳天皇(崇徳院)は、東三条(左大臣・藤原頼長の屋敷)にて、後白河天皇の院御所(高松殿)を偵察させたようです。
7月3日、後白河天皇側の源義朝は、崇徳天皇側の少監物・藤原光貞、ならびに武士2名を拘束し、事情聴取を行いました。

その後、1156年7月8日、後白河天皇は、藤原忠実と藤原頼長が、荘園から軍兵を集めることを禁止する御教書(綸旨)を諸国に発し、蔵人・高階俊成と源義朝の軍勢は、東三条殿に乱入して占拠しました。
こうして「保元の乱」となり、平清盛、源義朝らは、後白河天皇に味方する兵力を高松殿に集め、崇徳上皇がいる白河北殿を攻撃開始します。
後白河天皇・藤原忠通の勝利に終わり、崇徳上皇側の平忠正や源為義らは処刑され、崇徳上皇は讃岐へと配流になりました。
平安京ができてから、初めての市街での戦闘となりましたが、武士の実力が示された事件で、以後、武士の政界進出を促しました。

この少監物藤原光貞は、中務省の被官なりとあります。
中務省(なかつかさしょう)と言うのは、天皇に侍従し、詔勅・上表・国史・天文・暦・女官の人事・考叙・位記・諸国の戸籍・租調帳・僧尼の名簿などを司った役所の事です。
監物(けんもつ)と言うのは役職名で、中務省にて、大蔵・内蔵などの出納および諸庫の監察、管理をした官職です。
通常は、大監物が2人、中監物が4名、少監物が4名でして、少監物は一番下の下級貴族といったところでしょうか?



藤原光貞の出自が不明ですが、その後に関しては、わかっていません。
まぁ、讃岐に流された崇徳天皇に従っていたのであれば、失脚して、職を失ったかも知れません。
光福寺の宝篋印塔が建てられた、1323年より、だいぶ前の話ですので、ここからは完全な憶測・想像となってしまいますが、藤原光貞は、比企朝宗だったのか?とも感じた次第です。

比企藤内朝宗は、鎌倉幕府では朝廷にも明るく重用され、中務省に属する内舎人(うどねり)の役職についています。
藤原氏が内舎人になると「藤内」と呼ばれますので、藤原光貞は、もとの中務省に復職した、比企藤内朝宗だとも感じた次第です。
比企郡で、比企尼が暮したと言われる大谷(比企氏館跡)から、東松山・光福寺までは、歩いて30分の距離です。
宝篋印塔としては、2.1mと、かなり大きいですので、父・母と言うよりは、それなりに、権威ある先祖を供養した可能性もある次第です。
また、鎌倉・妙本寺は、1253年に、日蓮の弟子になった、比企能本(比企能員の末子)が鎌倉・比企氏館跡に建立しました。
三浦氏の娘とされる比企能本の母の法号(法名)が「妙本」だったようで、日蓮が「妙本寺」と名付けています。
比企能本の法名は日学妙本と言いますが、1286年に死去していますので、直接、東松山の光福寺とは結びつかないでしょう。
気になるのは、その鎌倉・妙本寺の近くにある、鎌倉・常栄寺です。
常栄寺も、日蓮宗なのですが、妙一尼(みょういちに)と言う、老婆・桟敷の尼の伝承があります。
この桟敷の尼は、比企能員の妻の妹とも、比企能本の妻が、桟敷尼の姉ともされます。
このような関係からも、比企朝宗の可能性も感じたのですが、伊賀光貞のほうが、可能性の割合としては、上のような気が致します。



しかし、沙彌閣阿なる少年僧も、とても気になります。