和田義重のちょこっと解説(わかりやすく)【鎌倉殿の13人】和田義盛の5男




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目次 contents
  1. 和田義重とは

和田義重とは

和田義重 (わだ よししげ) は鎌倉時代前期の武将で1177年に生まれた。
父は和田義盛で5男?とも考えられる。母は不詳。
別名は和田五郎兵衛。
他に兄弟としては和田常盛、和田義氏、朝比奈義秀、和田義直、和田義信、和田秀盛、杉浦義国らがいる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の林雄大さんが和田義重を演じられる。

残念ながら和田義重に関しては詳しく伝わっておらず、分からない事の方が多いが時代背景などを踏まえてできる限りご招待してみたい。





1213年(建保元年)2月、源氏で信濃にいた泉親衝が前将軍・源頼家の遺児・千寿を擁して北条義時を打倒しようとする。(泉親衡の乱)
信濃にはかつて比企能員と親しかった御家人が多かったともされる。
そして、阿静房安念という僧侶(泉親衡の郎党・青栗七郎の弟)が千葉成胤を訪ねて協力を求めた。
千葉成胤は安念をとらえて大蔵御所に連行。
金窪行親の調べで安念が自白すると約130人の御家人の名が上がり、翌日、和田義盛の子である和田義直、和田義重、甥の和田胤長、上総広常の甥・臼井十郎、八田知家の子である八田三郎らが鎌倉にて捕縛された。(泉親平は行方をくらました)
このとき、和田義盛は自領の上総国伊北荘(いぎた)にいて鎌倉を留守にしていたという。

このあたり、泉親衡の乱に関しては、泉親衡の紹介のところにて触れているため割愛させて頂く。

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非常に問題だったのは、和田義直、和田義重、甥の和田胤長と、和田一族の多くも加担していたことだ。

鎌倉に戻った父・和田義盛は一族98名を連れて御所に赴くと、北条義時の許しも得て、和田義直と和田義重は赦免された。
しかし、和田胤長は主犯格のひとりと考えられ二階堂行村に引き渡されたのち、陸奥国岩瀬郡へ配流となっている。
通例では配流となった一族所有の屋敷は、同じ一族が引き継げることになっていて、荏柄天神社の前にあった和田胤長の屋敷を一旦、和田義盛が拝領した。
しかし、北条義時が反対したため和田胤長の屋敷を明け渡しており、屈辱を感じた和田氏は面目を潰された格好となり、ついに挙兵して和田合戦に繋がったと言えよう。





1213年5月、和田義盛の乱となって敗戦すると和田義重は自刃したとも。享年37。

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