徳尼公(徳の前)わかりやすい手短かな解説~藤原秀衡の継室・とく【鎌倉殿の13人】




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目次 contents
  1. 徳尼公(徳の前)

徳尼公(徳の前)

徳尼公は平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、藤原基成の娘・徳の前。
父・藤原基成(ふじわら の もとなり)は、1143年に陸奥守になると、鎮守府将軍も兼任して平泉に下向した。
この時、実質的に奥州を支配していた奥州藤原氏・藤原基衡と親交を結んだ。
2人の関係は友好的だったようで、時期は不明だが、藤原基成の娘が藤原基衡の嫡男・藤原秀衡の継室になったとされる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では「とく」と言う名前で俳優(女優)の天野眞由美さんが徳尼公(徳の前)を演じられる。





なお、夫・藤原秀衡は、側室が産んだ長男・藤原国衡に、継室になっていた藤原基成の娘(徳尼公)を娶らせ、義理の父子関係を成立させている。
これは、正室が産んでいた次男・藤原泰衡が4代目となっても、兄弟間で家督争いが生じないように予防線をはったと考えられる。
父・藤原基成は藤原秀衡の岳父として衣川館にて補佐した模様なので、徳尼公の発言力・影響力もある程度強かった模様だ。

1187年10月29日、藤原秀衡が死去し、藤原泰衡が家督を継いでいる。

鎌倉を追われた源義経が平泉にいることがわかると、鎌倉殿・源頼朝は奥州藤原氏に源義経追討宣旨を下すよう後白河法皇に奏上。
朝廷は、2月と10月の2回、徳尼公の父・藤原基成と、4代目・藤原泰衡に、源義経追討宣旨を下している。

しかし、藤原泰衡は亡き父の遺命に従い拒否したため、源頼朝は奥州追討の宣旨を何度も要請し、奥州藤原氏に圧迫をかけた。

1189年2月15日、藤原泰衡は、源義経に味方していた末弟(6男)の藤原頼衡を殺害。
閏4月30日には、平泉衣川館の源義経を襲撃して自害に追い込み、更に異母弟(3男)の藤原忠衡も殺害した。

1189年7月19日、源頼朝は出陣して奥州攻めを開始。
この奥州合戦で藤原氏は敗れ、藤原秀衡の夫人(徳尼公・徳姫)は、藤原泰衡の子・万寿を連れて、36騎の従者とともに酒田に逃げ落ちたとされる。
羽黒山の麓の立谷沢に逃れて3年程住んだが、鎌倉御家人・土肥実平が羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進した頃、酒田に逃れたという。

<注釈> 父・藤原基成は3人の息子と共に降伏し東胤頼によって捕縛されたが、のちに許されて帰京している。

徳尼公は草庵を結ぶと、平泉から流れてきたということで泉流庵(現在の泉流寺)名づけ、奥州藤原一族の菩提を弔う余生を送った。
<注釈> 1217年に87歳で亡くなったとされ徳尼廟がある。
三十六人の家臣は袖の浦にて廻船業などの商売を始めたので、酒田港の発展につながったとされる。(酒田三十六人衆)
<注釈> 酒田に伝わる伝承では、徳の前は藤原秀衡の妹とされている。この場合、藤原秀衡の妻の名前は泉の方ともある。また、泉の方は側室ともされる。

酒田三十六人衆は幕末まで酒田を自治都市として運営した。





酒田の開祖とも言われる徳尼公。
毎年4月15日に泉流寺にて命日法要が行われている。

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