明菴栄西「臨済宗の開祖で茶祖でもある禅僧」鎌倉幕府の要人に受け入れられた理由は?




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目次 contents
  1. 明菴栄西とは

明菴栄西とは

明菴栄西(みょうあん-えいさい)は、永治元年(1141年)4月20日に備中国に生まれた、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての禅僧である。
この時代は、疫病の流行や天変地異が頻発し、人々は宗教に救いを求めたが、当時の仏教(旧仏教)はその能力を失っていた。
栄西は旧仏教を批判し、中国で栄える禅こそが仏教の核心であるとして、日本に臨済宗を伝えることになる。
旧仏教に不満を抱き独自の道を行き、鎌倉の武士や朝廷と深い結びつきを持った栄西の生涯を紹介したい。

比叡山延暦寺で得度する

栄西の父は、吉備津神社の神官であったといわれるが仏教の素養もあり、幼い栄西もその父の影響を受けて育った。
栄西は、11歳で吉備郡にある安養寺の静心に師事した。
静心は、天台密教僧であり、そのため禅僧・栄西の原点は、天台宗といえる。
13歳で比叡山延暦寺に入った栄西は、翌年得度して正式に天台密教僧となる。




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静心の死により、その遺言で法兄の千命に師事し、千命から虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)授けられたといわれる。
これは密教の修行法で、優れた記憶力や理解力を獲得できるといわれる古来からの荒行である。
一度比叡山を離れた栄西は、27歳で伯耆国・大山寺の基好を訪ね、密教の教えを受けて奥義を授けられている。
このように若い頃の栄西は、密教の研究に明け暮れ、中国に渡り禅を広める活動を始めるようになっても、密教の教えは禅と決して矛盾しないとして、その思想は最後まで変わらなかった。

仏教の堕落を食い止めるため中国に渡る

当時の天台宗や真言宗などの旧仏教は、保守的で上流階級の宗教であったと考えられるが、栄西はその現状をなんとか食い止めようと、仁安3年(1168年)に中国渡航を決意する。
当時の渡航は簡単ではなかったが、渡航を果たした栄西は天台山万年寺に登り「天台章疎」60巻を持って同年9月に帰国する。
ここでの渡航の目的は、あくまで旧仏教の再建であったが、当時の宋では禅宗が隆盛を極め、これを目の当たりにした栄西は、日本仏教の再建に禅を追求していくことになる。
この時は、まさに平家が没落していく時代にあり、動乱を避けていた栄西は備前国や筑前国にあって、修行や著作に専念する。
栄西は、しばらく世に埋もれていることを余儀なくされていたが、後鳥羽天皇の勅命を奉じ、神泉苑にて雨を祈ることになり、たちまち雨を降らすという奇跡を起こしているが、これは栄西の京都における布教活動の足掛かりとなった。

仏教の正しい姿を求めてインドを目指す

栄西は、布教活動において旧仏教の再建はもはや不可能と感じていた。
日本仏教は、仏教の正しい姿に立ち返る必要があると考え、その答えを中国にとどまらずインドに求めようとした。
文治3年(1187年)インドへ渡る計画を持ち、栄西は二度目の中国渡航を果たしたが、インド行きは宋の朝廷から許可が得られないことから、目的は達成できなかった。
道を断たれた栄西は中国にとどまり、再び天台山に登り虚庵懐敞(きあん-えしょう)を訪ね、師事した。
虚庵は臨済宗黄龍派の禅僧で、この出会いが栄西に多大な影響をもたらした。
栄西は弟子として虚庵から薫陶を受け、4年にわたり臨済禅を修め、禅の精神を継承する者として、印可と茶種を持ち帰国する。

帰国し禅を説く

帰国した栄西は、禅の精神を宗派として独立させるため、九州に軸足を置き布教活動を行った。
そして栄西は、源頼朝に帰依を受けることになり、建久6年(1195年)に筑前国・博多に最初の禅寺である聖福寺を創建するなど、九州各地に寺院を建立した。
栄西が九州で行った布教活動によって、鎌倉幕府に受け入れられる基盤は整ったといえる。
次に栄西は、京都に入り更なる布教を目指すが、旧仏教側が朝廷に活動を禁止するよう働きかけられるなどといった政治的な妨害を受けている。
新参者には様々な困難に直面せざるを得ない状況に苦悩し、比叡山の仏教とは決して矛盾しないことを主張しながらも、京都での布教は難しいと考えた栄西は、正治元年(1199年)幕府の招きで鎌倉へ向かった。
幕府の創始者・源頼朝は、この頃ちょうど死去しているがその翌年、二代将軍・源頼家は頼朝の一周忌を行い、その導師を栄西が務めている。
さらに同年、頼朝の妻・北条政子が夫を弔うため寿福寺を創建し、住持に栄西を迎えた。
源頼家と政子は、新しい国を造るうえでの助言を、栄西の禅に求めたといってよい。




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栄西のこうした努力が結実し、建仁2年(1202年)に頼家の帰依により、京都に建仁寺の創建が実現した。
建仁寺は勅許による年号寺院で、京都最古の禅寺である。
栄西は、自身の社会的地位を高めることが、禅を広めるうえでの近道であると認識していたのである。
幕府の庇護を受けた禅宗は、各地に寺院が建立されたことで武士を中心に理解が広がり、やがて宗教に救いを求めていた庶民にも広がっていく。

栄西の思想

建仁寺は、栄西の布教活動の拠点になるはずであったが、保守的な京都において旧仏教側からの風当たりはいまだに強かった。
栄西は旧仏教側の批判をかわすため禅院のほかに、止観院や真言院をあわせて設置し、総合的な寺院としての建仁寺が始まった。
栄西は、こうした旧仏教側の容赦ない批判に対し、禅宗の独立の立場を明らかにした「興禅護国論」を建久9年(1198年)に著している。
このなかで、禅こそが仏教の核心としていて、諸宗に共通したものであるといっている。
諸宗に共通した禅だからこそ、宗派として独立するのだと主張した。
仏教が堕落していた当時において、禅が宗派として独立し、禅を興していくことが日本仏教の再建に繋がると願ったのであろう。




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明菴栄西、建保3年(1215年)7月5日、京都・建仁寺で入滅、享年75歳。

(寄稿)浅原

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