相馬師常の解説(2分でわかりやすく)~鎌倉にある相馬次郎師常之墓

目次 contents
  1. 相馬師常とは

相馬師常とは

相馬師常(そうま-もろつね)は平安時代末期の武将で、1139年に生まれました。
父は千葉介(ちばのすけ)と呼ばれる、桓武平氏良文流千葉氏千葉常胤(ちば-つねたね)になります。
母は、秩父重弘の娘です。
兄に、千葉胤正(ちば-たねまさ)がいる関係で、次男だった相馬師常は、伝承では平将門の子孫・信田師国の養子になったとあります。

相馬次郎師常之墓

かつて平将門の本拠地より少し離れた、相馬郡相馬御厨(松戸から我孫子付近)を相続したので、相馬氏の初代(相馬二郎)と言う事になります。
<注釈> 平将門の次女・春姫 (如春尼)が、平忠頼に嫁いで、下総国相馬郡の大半を所領にした房総平氏の祖・平忠常を産んでいます。その子孫が、上総氏、千葉氏と言う事になる。
御厨(みくりや)と言うのは、伊勢神宮に寄進した土地で、その土地に入ったと言う事は、その土地(御厨)の管理(下司職)をしたという事。

1180年、石橋山の戦いに敗れ、安房へ逃れた源頼朝は、安達盛長を千葉氏に派遣して、加勢を求めます。
父・千葉常胤は快諾し、子である千葉胤正・相馬師常・武石胤盛・大須賀胤信・国分胤通・東胤頼らも、加わって、源頼朝は大軍を得ました。



木曽義仲との戦いや、1184年の平家討伐において、相馬師常は、父・千葉介常胤や弟・国分五郎胤通、東六郎太夫胤頼らと、源範頼の軍勢に加わり、一の谷の戦いでも活躍したようです。
ただ、次男であり、また、父・千葉常胤も長生きだったことから、吾妻鏡でも、相馬師常に関する多くの記述は、重要な儀式に登場するくらいです。
少し、話がそれますが、鎌倉幕府では、子供が生まれた、日向薬師など寺に参詣する、法事などの供養、狩に行く、上洛するといった儀式関連などが多いです。
そのたびに、どの御家人を同行させるなどの人選では、呼ばれなかった者は、不満を覚えることもあったでしょうから、源頼朝も、かなり気を使ったのではないかと推測します。

その他、相馬師常が活躍した記録があるのは、1189年の奥州征伐でして、源頼朝から「八幡大菩薩」の旗を授かっています。
八田知家や、父・千葉常胤とともに相馬師常は出陣していたようで、活躍の具体例はわからないのですが、恩賞を得た話が掲載されています。
また、この奥州合戦の功績で、陸奥国行方郡(なめかたぐん)を加増されました。
相馬氏に与えられたため、、現在の相馬市・南相馬市と言う地名になったと考えられます。

1201年、父・千葉常胤が亡くなると、家督を嫡男の相馬義胤に譲って、相馬師常は出家し常心と名乗り、浄土宗・法然の弟子になったとされます。
嫡男・相馬義胤は、1204年、畠山重忠の乱の際に、北条義時に味方して、鎌倉勢として二俣川の戦いを戦っています。



鎌倉での相馬師常の屋敷は、現在の寿福寺のすぐ南側、巽荒神(たつみこうじん)付近にあったようです。
扇谷の鎮守・八坂大神は、相馬師常の創建で、屋敷内にあったとされます。
1205年11月15日、専修念仏の行者として合掌し念仏を唱えていましたが、そのまま正座した姿勢で亡くなりました。享年67。
極楽往生間違いなしとなった、この熱心な念仏信徒の亡骸を拝もうと、鎌倉の民衆が集ったと伝わります。
<注釈> 専修念仏(せんじゅねんぶつ)とは、浄土に往生するため「南無阿弥陀仏」と、ひたすらに念仏を唱え、他に何もしない事を言う。

相馬師常の墓(相馬次郎師常之墓)は、鎌倉・扇ケ谷にある、浄光明寺の崖下にあります。

相馬次郎師常之墓

もとは、別の場所にあり、寿福寺などを経て、現在地に移ったともあります。
相馬次郎師常之墓がある場所は、当方のオリジナル関東地図でもポイントしておりますので、歩くカーナビ代わりにでも、ご活用賜りますと幸いです。

相馬師常の墓への行き方ですが、浄光明寺からは入れません。
西側の道路から、進んで、崖のところにあると言う感じです。
駐車場はありませんので、クルマの場合、鎌倉・寿福寺付近のコインパーキング利用となります。
ただし、アクセス路は狭く、観光客が多く歩いていると、危ないです。
大姫の岩船地蔵堂などとセットでどうぞ。



鎌倉時代後期、相馬氏は家督争いがあり、相馬重胤(そうま-しげたね)が、陸奥の領地に移り、陸奥・相馬氏となりました。
陸奥・小高城主である相馬義胤などの戦国大名を輩出しています。

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