千葉常胤の解説【千葉氏中興の祖】鎌倉幕府有力御家人に




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千葉常胤とは

千葉常胤 (ちば つねたね) は、平安時代末期の1118年に生まれた武将で、父は千葉常重(千葉介・平常兼の子で下総権介)、母は石毛政幹の娘となります。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の岡本信人さんが、千葉常胤を演じられます。

千葉常胤

そもそも「千葉氏」は、桓武天皇の孫である平高望の6男・平良文を祖とする桓武平氏良文流とされます。
平良文(たいら の よしふみ)は、藤沢の相模・村岡城を本拠にしたと考えられ、村岡五郎と称しました。
その3男・平忠頼は、平将門の娘・春姫を妻にし、その長男の平忠常が千葉氏の祖、次男の平将恒は秩父氏(秩父平氏)の祖、3男の平頼尊の子孫は相模・中村氏を称し、更には、河越氏、江戸氏、渋谷氏などに分かれていったと言う事になります。
三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏なども、平良文の流れです。





千葉館(千葉氏館)

なお、千葉氏の最初の頃の本拠は、鹿島に近い大椎城であり、千葉常胤も、大椎城にて生まれた模様です。
1126年に千葉氏は、本拠を現在の千葉市に移して、千葉館(千葉氏館)を築いたと考えられます。

千葉館(千葉氏館)

長承4年(1135年)、18歳の時に家督を相続します。
1146年には、父・平常重が、領地から納税していなかったとして、没収されていた下総・相馬御厨(柏市・我孫子市周辺)の領地を、未納分を収めて回復させました。

1156年、保元の乱で、千葉常胤は、源義朝の軍勢に加わって戦っています。
1160年、平治の乱では、源義朝の遺児・源頼朝が伊豆にて流刑となっていますが、源義朝の身代わりとなって討死した源義隆の3男・源頼隆(みなもと の よりたか)の配流先としては、千葉常胤が預かりました。
千葉常胤の正室は、秩父重弘の娘で、1180年に嫡男・千葉胤正(ちば たねまさ)が生まれています。

1180年、挙兵するも石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、真鶴から房総に逃れます。
すると、安達盛長が使者として来たため、加勢することを約束し、源頼朝は上総から下総に向かい、千葉常胤と上総広常が加わりました。
この時の千葉氏の家臣は、千葉胤将、千葉師常、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、千葉常秀、武石胤重など300騎とされます。
また、鎌倉を本拠にして、まずは関東を平定することを進言したともされます。
そして、下総目代を攻撃し、反撃してきた・藤原親政(ふじわら の ちかまさ)を、結城浜の戦いにて破りました。
預かっていた源頼隆も、千葉氏館に参じ、源頼朝と対面しました。





その後、源頼朝が隅田川を渡ると、武蔵の豊島清元・葛西清重らも加わり、先鋒は畠山重忠、殿(しんがり)は千葉常胤となって、源頼朝らは鎌倉入りを果たします。
このようにして、千葉常胤は、鎌倉幕府の成立に大きく貢献した有力御家人となりました。

1183年、謀反を企てたとして上総広常が誅殺されると、房総平氏惣領家の座は、千葉常胤に移り、所領の分配も受けています。
1184年、木曽義仲の追討と平家討伐では、源範頼の軍勢として、一ノ谷の戦いにも参じるなどして武功を挙げました。
1187年、京の洛中を警護するため上洛し、1190年の奥州合戦では、新調した源氏の白旗二幅を製作し、八田知家と東海道方面の大将として出陣しています。
論功行賞で、最初に恩賞を受けたのが千葉常胤であり、奥州各地にも所領を得ました。





1193年、香取神社の造営も担当しています。
建仁元年(1201年)、千葉常胤は死去。享年84。

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