北条時行の解説~かつての執権・北条氏復活に生涯を捧げた武将で鎌倉を3度陥落させる

北条時行とは

北条時行(ほうじょうときゆき/ときつら)は、鎌倉幕府最後の得宗である北条高時の次男として誕生します。
元寇で有名な北条時宗の曾孫にあたります。
生年は、はっきりしておらず兄である北条邦時が正中2年(1325年)の生まれなのでそれ以降とされています。
幼名は、勝寿丸・亀寿・全嘉丸など文献によって様々に記録されています。

北条時行

中先代の乱

元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の有力御家人であった足利高氏が京都近辺で後醍醐天皇の勢力へ離反。
六波羅探題が攻め落とされます。
同年、新田義貞が鎌倉を攻め(東勝寺合戦)、北条時行の父である北条高時を含む北条一門の多くは自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
北条時行は、10歳に満たないタイミングで鎌倉幕府滅亡を経験していることになります。



鎌倉幕府滅亡の際、北条時行は家臣である諏訪盛高に連れられて鎌倉から脱出していました。
そしてそのまま、諏訪氏の本拠地である信濃国に向かい、ここで雌伏の時を過ごすことになります。
ちなみに、兄の北条邦時は脱出時に家臣に裏切られ、新田勢に捕まり処刑されています。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は新政権を樹立させますが、建武2年(1335年)6月には
もう不穏な空気が流れ始めます。西園寺公宗という幕府贔屓であった公家が建武政権に
対して謀叛を計画していました。

計画の内容は

・後醍醐天皇を暗殺
・京都で北条泰家(北条時行の叔父)が挙兵
・東国で北条時行が挙兵
・北国で名越時兼が挙兵

というもので、建武政権に不満を持つ他の武士も巻き込み大規模なものとなりました。

建武2年(1335年)7月、北条時行はまだ10歳前後でしたが、東国の反乱勢力の御旗となります。
北条時行および北条時行を擁立した諏訪頼重・諏訪時継などが、後醍醐天皇による親政に不満を持つ勢力や北条氏の残党を束ねて信濃国で挙兵します。
中先代の乱の始まりです。



北条時行軍は、まず信濃国守護の小笠原貞宗を破り、信濃国を固めます。
その後、上野国から武蔵国へと進軍し、ここで鎌倉を預かっていた足利直義が派遣した軍と戦闘になりますが、これを撃破。
ついに足利直義は、自ら軍を率いて迎え撃ちますが、北条時行軍はこれにも勝利し、7月25日には鎌倉を奪還します。

一方、京都に「足利直義が敗れる」という情報が届くと足利尊氏が動き出します。
足利尊氏は、後醍醐天皇に北条時行征伐のために東国への出兵と征夷大将軍の官職を求めました。
しかし後醍醐天皇がこれを許さなかったため、足利尊氏は公認を得ないまま出兵。
後醍醐天皇は征東将軍という官職を追認することになります。

北条時行軍は、鎌倉を目指して進軍してくる足利尊氏軍を遠江国で迎え撃ちますが敗北。
足利尊氏とは数度に渡り交戦しますが連敗を重ね鎌倉へ撤退することになります。
そしてとうとう鎌倉で合戦が行われますが、足利尊氏にかなわず敗北。
この反乱を主導した諏訪頼重らの重臣は自害しました。
北条時行は鎌倉から再び落ち延びることになります。
鎌倉幕府執権の北条氏を「先代」、室町幕府を開いた足利氏を「当代」としたとき、北条時行がその中間にあたるため「中先代の乱」と言われます。
鎌倉を占領していた期間はわずか20日ほどだったので「二十日先代の乱」とも言われています。

中先代の乱は、鎮圧する経緯の中で後醍醐天皇と足利尊氏との争いを表面化させ、南北朝に突入する契機となりました。

南朝の武将として3度鎌倉を陥落させる

後醍醐天皇と足利尊氏の争いは、足利尊氏が勝利して室町幕府を開きました。
後醍醐は、一度は投降するものの大和国吉野へ脱出。
同地で南朝を開き、南北朝の内乱(1336年~1392年)が始まります。
北条時行は、後醍醐天皇の南朝に帰順をして朝敵を赦免されます。
延元2年/建武4年(1337年)前後のことだと考えられています。
北条時行からみれば、両方が憎い仇に見えるはずですが、なぜ南朝側に就いたのでしょうか?諸説あるようで、
・鎌倉幕府の滅亡は北条高時に非があったと認識していた。
そのため後醍醐天皇が鎌倉幕府を攻めたのはしかたがない。
しかし、北条氏、後醍醐天皇など恩を受けた相手を裏切り今の地位にある足利尊氏が許せなかった。
・持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、上皇が足利尊氏と組んだため「自分は切り捨てられた」と判断し、南朝に帰順を申し入れた。
と言われていますが、定まった見解があるわけではないようです。



延元2年(1337年)、南朝の鎮守府大将軍である北畠顕家は、北朝勢力から京都を奪還するために欧州から遠征にでます。
この軍に、北条時行が参加。
鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子である新田義興もこの軍に参加していました。
北畠顕家、北条時行、新田義興の連合軍は鎌倉を攻め、将である足利家長を破ります。
北条時行は2度目の鎌倉奪還となりました。

この後、北条時行は京都へ向けて進軍する北畠顕家と行動を共にするようになります。
美濃国青野原では幕府方の高師冬、土岐頼遠と交戦し勝利(青野原の戦い)。
伊勢経由で畿内に進軍しますが京都に近づくにつれ、幕府方の兵は屈強になり、一方で味方は遠征の疲労が蓄積され敗戦を重なるようになります。
最終的に、和泉国石津で大敗を喫し、北畠顕家は討死。
遠征軍は雲散霧消してしまいます。
北条時行はこの時も生き残り、一時身を隠すことになります。

先述の北畠遠征軍の陣中に参加している時、北条時行はおそらく10代中頃ぐらいであったでしょうか。
まだ家臣に支えられながら軍に参加していたと思われますが、次に北条時行が歴史の表舞台に出てくるのは、正平7年(1352年)。
20代~20代中ごろであったと推測されます。
この年、北畠親房を中心とする南朝勢力は、東西で連携し京都と鎌倉の同時奪還を企てていました。
上野国で挙兵したのは、新田義貞の子にあたる新田義興、新田義宗の兄弟。
新田の両将は兵を二手に分け鎌倉を目指し進軍しますが、迎撃する足利方に敗れてしまいます。
この時、北条時行は脇屋義治とともに新田義興の軍に参加します。
鎌倉に侵攻して初代鎌倉公方足利基氏を破り3度目の鎌倉奪回を果たします。

その後は、鎌倉で攻撃を何度か防いだものの、最終的には足利方に制圧されてしまいました。
北条時行はこの時も難を逃れますが、正平8年(1353年)、遂に足利方に捕縛され鎌倉龍ノ口で処刑されました。
「北条高時の遺児(前政権の後継者であったはずの人物)」というブランドが、当時の反幕府勢力や南朝にとって価値の高いものであったため、幼少の頃より戦に明け暮れる一ことになりました。



一方で生存説もあるようです。
延元3年(1338年)から伊勢国に根を下ろし「伊勢次郎」と称したと言われています。
そして、北条時行の子に北条行氏という人物がおり、小田原北条氏(後北条氏)はこの人物の後裔である、とも言われています。

(寄稿)渡辺綱

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