北条高時の解説~鎌倉幕府と共に果てた最後の執権




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目次 contents
  1. 北条高時とは

北条高時とは

祖先の名を貰った高時

北条高時(ほうじょう-たかとき)は、鎌倉時代の嘉元元年(1334)に生まれます。北条貞時の3男として生まれますが、長男次男共に早世しているので、嫡男として扱われました。

そして延慶2年(1309)の時に元服。7歳という若さながら、成寿丸から高時へと名を変えました。この時の烏帽子親は鎌倉幕府9代将軍の守邦親王。烏帽子親から1文字を貰うことが慣例ではありますが、高時は守邦親王から貰わず祖先の平公望からいただきました。

これには、失墜し始めていた得宗家による政治体制を再度確立させるという願いを込めたとされています。

北条高時

鎌倉幕府14代執権へ

応長元年(1311)の時に父の貞時が病死します。まだ高時は9歳だったので、安達時顕と長崎円喜の庇護のもと、正和5年(1316)、14歳で14代執権となりました。





在任中高時は、文保2年(1318)から元応(1319)に鎌倉殿中問答を実施。日蓮宗の日朗の門下生・日印が諸宗教との問答を行いますが、日印が諸宗教を論破し日蓮宗の布教を高時は許しました。

また、悪党たちの活動や東北地方での蝦夷たちの反乱、蝦夷代官安藤氏の内紛に乗じて蝦夷が蜂起する安藤氏の反乱の対応に追われることになります。正中元年(1324)には後醍醐天皇が鎌倉幕府転覆を計画する正中の乱が勃発。

この計画は京都の警護を主とした六波羅探題に防がれ、後醍醐天皇の側近が佐渡島に流罪、加担者も処罰されますが、後醍醐天皇は無罪でした。

高時の出家と後醍醐天皇の暗躍

高時は24歳になる正中3年(1326)に病のため、執事職を引退し出家。崇鑑を名乗りました。しかし、高時の後継を巡って高時の庶子・北条邦時を推す長崎氏と高時の弟・北条泰時を推す安達氏が対立。嘉暦の騒動が起こります。

一時は邦時の後見として金沢貞顕が執権となりますが、泰時に追い詰められすぐに執権を辞任しました。そして、事の収束を図るべく北条守時が執権になったことで、丸く収まりました。

しかし、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が再び倒幕を計画する元弘の乱が起きます。これは翌年に鎮圧され後醍醐天皇は隠岐島へ配流となりました。

最後と後世の評価

元弘3年(1333)には後醍醐天皇が隠岐島から脱出し、伯耆国(現在の鳥取県)で挙兵すると高時は、名越高家や足利尊氏を倒幕軍の討伐に派遣。ところが、高家が敗北し尊氏が倒幕側に寝返り、関東の御家人・新田義貞も挙兵すると一気に劣勢となります。新田軍が鎌倉へ侵攻すると高時は東勝寺へ撤退し、31歳で一族や家臣と自害しました。

高時は元来、虚弱体質であることが指摘されています。その理由は、8代執権の北条時宗から遡る安達氏との婚姻関係にありました。安達氏との婚姻関係を繰り返したことで、血が濃くなったことが要因です。

また、出家後には闘犬や田楽に現を抜かしたことが鎌倉幕府を滅亡させた原因とされています。そのため、『太平記』や『増鏡』といった史料には、趣味に傾倒して幕府を滅ぼした暗君や暗愚と評されています。





寄稿(拾丸)

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