源頼朝の解説 鎌倉幕府ができるまでの経緯も

源頼朝 (みなもと よりとも) は、鎌倉幕府を創設し、征夷大将軍に任じられた鎌倉時代の武将で源氏の棟梁です。
<注釈> 正確な読み方は「みなもと の よりとも」になる。

源頼朝

源氏とは?

源頼朝の河内源氏(かわちげんじ) と言うのは、河内国(大阪付近)を本拠にしていた源氏で、一般的に「源氏」の武将を差す場合、この河内源氏が祖である武将を「武家の棟梁」と言います。
平安時代の清和天皇の第6皇子・貞純親王の子である経基王が「臣籍降下」により源姓を賜り、源経基と名乗ったのが清和源氏の始まりです。

その後裔は摂津源氏、大和源氏、河内源氏とに分家し、更に河内源氏からは石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などに分かれました。(天皇が先祖なので血筋が良いと言う事になる。)

源頼朝は3男だった

1147年に生まれた源頼朝の父は、河内源氏の棟梁・源義朝(みなもと の よしとも)で、母は藤原季範の娘・由良御前になります。
乳母は比企掃部允の妻・比企尼です。
兄に源義平、源朝長がいましたが、1160年、平治の乱(へいじのらん)にて源氏は平清盛らに敗れ、父・源義朝、兄2人は、若くして命を落としました。
この時、13歳だった源頼朝も、平宗清に捕まり京・六波羅に送られましたが、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに) の助命などもあり、命は助けられて、伊豆国への流罪となります。
蛭ヶ小島(ひるがこじま)に入ったとされますが、平家の武将である北条時政や、伊東館主・伊東祐親が監視役を命じられています。

蛭ヶ小島

既に兄が亡くなっていたため、源頼朝が源氏の棟梁と言う立場になりましたが、この「生かした」と言うのは、栄華を極めていた平氏にとって、致命傷となりました。

伊豆での暮らし

平安時代の流罪と言うのは、京から離れた辺鄙な土地に送ると言う追放刑です。
追放して謹慎させたと言う事ですので、屋敷に幽閉されたり、牢屋に入ることもなく、屋敷を与えられて、生活の世話を、家人や家来が行う事も原則として許されました。
そのため、源頼朝が流罪となった伊豆でも、館には誰でも出入りが自由で、源頼朝自身も馬に乗って出かける場合もありました。
伊豆半島だけでなく、三浦半島から房総半島まで出掛けたと言う記録も残っていますので、かなり自由だったようです。
しかし、逃走したり、不穏な動きが無いように監視したのが、北条時政や伊東祐親と言う事になります。
経済的には困窮していたようで、乳母だった比企尼が、約20年間、米を送り続けたとされます。
そして、伊豆の源頼朝のもとには、比企尼の3人の娘婿である安達盛長河越重頼、伊東祐清をはじめ、佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱・鎌田俊長らが側近として仕えました。

源頼朝は、やがて、伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男子(千鶴丸?)が生まれています。
しかし、平清盛の怒りを買うと考えた伊東祐親は、この幼子を川に沈めて殺害し、源頼朝と八重姫の仲を裂きました。
更には、源頼朝も殺害しようとしたとされ、伊豆山神社から逃れた源頼朝は、以後、北条時政の屋敷にて暮らすようになったとされます。
このことからも、最初は、伊東のほうで謹慎していて、あとから、韮山のほうに移った可能性があります。

北条政子と結婚

その後、源頼朝(30歳くらい)は、源頼朝の監視役でもあった北条時政の長女・北条政子(20歳くらい)と、恋仲となって、子供を宿します。
この時、源頼朝の監視役だった北条政子の父・北条時政は、大番役として、京都の警護を行っていて伊豆にはいませんでした。
伊豆に戻ると、このことをしり、当初は結婚に猛反対としたとされますが、1177年頃に、源頼朝は北条政子と結婚しました。

源頼朝と北条政子

1178年には、長女・大姫(おおひめ)が無事に生まれています。
こうして、監視役だった北条時政は、源頼朝に味方するようになっていきます。

石橋山の戦い

1180年、後白河法皇の皇子・以仁王が、摂津源氏の源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、叔父・源行家によって伊豆の源頼朝にも令旨が届けられます。
当初、様子を見ていた源頼朝ですが、自身の命を狙われるようになったこともあり、挙兵を決意すると、伊豆目代・山木兼隆の邸宅を襲撃します。
源頼朝の挙兵に従った武将は、北条時政、北条義時工藤茂光土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木盛綱、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、また、三浦義澄和田義盛らの三浦一族が三浦半島から合流するべく軍を発しました。
一方、源頼朝を討つべく対抗した関東の平家武将は、大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親、俣野景久、海老名季員らで「石橋山の戦い」となりました。

石橋山の戦い

酒匂川の増水などで三浦勢の合流が遅れた源頼朝らは、兵力に劣ったことから、佐奈田与一が討死するなどして敗れ、敵方であった飯田家義の手助けで、湯河原や箱根の山中を逃亡します。
また、しとどの窟にいたところを、敵方の梶原景時にも発見されますが、報告しないと言う恩情を得て、真鶴岬から船で安房(房総)へ脱出し、仁右衛門島に隠れました。
もともと源頼朝は、直属の軍勢を持っていませんので、普通でしたら、これでおしまいといったところですが、ここから大逆転劇が始まります。
房総の上総広常千葉常胤を味方にすると武蔵に進軍し、隅田川を越えたあたりで、足立遠元、葛西清重、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らが合流し、大軍となります。
そして、鎌倉に入ると一大勢力となりました。
これに対し平家は、平維盛を対象に討伐軍を派遣しますが、富士川の戦いにて源氏が勝利し、また、弟・源義経が合流しています。
大庭景親、佐竹秀義らを討ち東国を平定すると、源頼朝は鎌倉殿となり、和田義盛を侍所別当に任じています。

鎌倉幕府創設

武士政権を目指すため、後白河法皇との交渉も進め、1183年、源義仲(木曽義仲)らが、京都から平家を追いやると、後白河法皇は源頼朝を朝廷の味方としました。
そのため、木曽義仲が後白河法皇に反逆すると、源頼朝は即座に軍勢を京に派遣して、源範頼ら鎌倉勢が京都を占領しています。
その後、源義経らの活躍もあり、1185年、平家は壇の浦の戦で滅亡しました。
また、奥州の藤原秀衡の討伐では、源頼朝自ら出陣して滅ぼし、源義経の追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を確立しました。
こうして、北条時政・大江広元らを側近とし、日本で初めての武家による政権「鎌倉幕府」を万全なものにしています。
1192年、源頼朝は征夷大将軍に任じられています。
<注釈> 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、本来、東国討伐の大将として任ずる臨時の朝廷の役職(官職)でしたが、源頼朝がその役職を欲したため、以後、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者が、征夷大将軍となりました。

源頼朝の死去

1198年12月27日、稲毛重成(いなげしげなり)の亡妻(北条政子の妹)の追悼のため、相模川に掛けた新しい橋の供養に参加した帰り道で、源頼朝は「落馬」したとあります。
その後、体調が優れず、翌1199年1月13日に、源頼朝は死去しました。享年53。

源頼朝の墓

源頼朝の死因は不明ですが、脳卒中などを起こして、落馬したとも考えられているようです。
源頼朝の墓は、鎌倉にあります。

武家政権を樹立すると言う功績を挙げた源頼朝でしたが、源義経・源範頼ら源氏一族の諸将を殺害したり、大庭景義を追放するなど、してきたことは、やがて、御家人らの内部抗争に発展していき、北条氏が力をつける結果となります。
鎌倉幕府第2代征夷大将軍(鎌倉殿)には、源頼家が就任するも、北条時政・北条義時を中心としてた「十三人の合議制」が敷かれ、征夷大将軍は政治の主導権を失いました。

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