東国武士団は何故【鎌倉殿】こと源頼朝を旗頭として仰いだのか?




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源頼朝を旗頭にした東国武士

 三谷幸喜さん脚本の今年(2022年)のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』(第61作)がいよいよ放送開始になりました。まだ3回しか放送されていませんが、歴史に通暁されている上、コメディータッチの妙味も心得ていらっしゃる三谷先生らしい、(良い意味で)予想を裏切られる物語展開で、筆者も一視聴者として楽しませてもらっています。
 江戸中期の栄えある元禄文化の担い手の1人とされる劇作家・近松門左衛門(別名:近世日本のシェークスピア、代表作:曾根崎心中など)は、事と虚をバランス良く織り交ぜて物語を創作してゆくことを真骨頂とする「虚実皮膜論」を生涯の持論としていたと言われていますが、そういう意味では、三谷幸喜先生も「虚(コメディ要素。例えば、第1回の源頼朝が女装する)」と「実(史実)」という皮と膜を一体とした絶妙な物語を書き上げているという点では、正しく虚実皮膜論を展開する偉大な劇作家の1人であると思います。
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が死去した後に、2代将軍・源頼家を後見(実際は権力縮小)するために「13人の鎌倉御家人によって構成された合議制グループ」がドラマタイトルの由来となっているのは有名でありますが、それの通り、本ドラマでも主人公は大泉洋さん演じる源氏の棟梁・源頼朝ではなく、小栗旬さん演じる北条義時や北条一族、山本耕史さん演じる三浦義村の三浦一族、武蔵の比企能員とその一族、と言った「東国武士団(坂東武士たち)」が主人公であります。





 以前の学校の授業では、「源頼朝が、北条など東国武士団を配下に従え、宿敵・平家を滅ぼし、1192年、鎌倉に幕府を開き、武家政権を打ち立てた」というのが定説となっており、あたかもそれまで徒手空拳の身分に過ぎなかった頼朝が、東国の有力武士団を従属させて、忽然と関東に一大勢力圏を築き上げた、という源頼朝と源氏一族が主導した挙兵したように習いました。しかし、これは真逆であり、『源氏の棟梁・源頼朝が、東国武士団たちの手によって旗揚げの旗頭(シンボル)として担がれた』というのが史実であります。即ち、源平合戦は頼朝の平家討伐ための挙兵のみだけではなく、東国武士団の独立戦争だった。というのが源平合戦の真相であります。
 
『東国武士団は、何から独立するために、源頼朝を推戴して大勢力の平氏と戦ったのか?』という疑問が出てきます。
 
 確かに源頼朝、その舎弟の源義経らにとっての仇敵・平氏を滅ぼす、という表面上の目的はありましたが、何よりも頼朝を旗頭とした東国武士団が、それ以上に重要視した大目的は、京都朝廷が支配する西国勢力からの過酷な支配からの独立!』というものでした。京都朝廷、それを名実共に壟断する強大な平氏が支配する西国からの独立戦争。これこそが東国武士団が戦った本当の意義でした。
 現在では、首都・東京を有する関東地方を中心とする東日本が、日本国家の政治・経済・産業など全方面の核心部なっていることは完全たる事実でありますが、源頼朝と平清盛、そして東国武士団が生存していた12世紀後半の東日本は、一言で言えば「鄙=大田舎」であります。当時から、東国武士団やそれが従える一族郎党・民衆などの入植者が増えてはいましたが、京都・大和などの畿内を中心として発展している西日本から見れば、全くの不毛地帯に過ぎませんでした。
 日本中世史、特に鎌倉期がご専門でお馴染みの東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏は、当時の東西日本の発展度の違いを『西高東低』『当時の関東~東北の東日本は、どん詰まり』と評されています。この記事を執筆させてもらっている時期(2022年1月下旬)の天気は、正しく「西高東低の気圧配置」ですが、この気性条件を使った本郷先生の上記の比喩は、実にユニーク且つ正鵠を射たものだな、と筆者は正直に感心しました。





 12世紀後半の西日本が何故、政治経済での中心となっていたのか?という理由ですが、それを一言で述べるなら、「地理的環境」にありました。古代より最先端の思想や文化、物資が日本の北西にある中国大陸(当時は宋王朝)および朝鮮から輸入されていたからであります。
 中国・朝鮮から海路により、日本海~九州博多(或いは越前敦賀)~瀬戸内海~摂津福原(神戸)や難波津、そして淀川の水運を経て終着点の京都に最新の文物が届き、朝廷寺社に献納される。というように、西日本の九州・瀬戸内が文物ルート(大陸貿易路)として、京都朝廷や平氏から重要視され、発展の進捗も早かったのです。それに比して、京都、そして古くより北陸~京都の水運ルートの要点であった琵琶湖を抱える近江国からの東日本に対して、京都朝廷は殆ど無関心であったと言われ、各国に差遣する国司(現在の県知事相当)に統治(と言っても租税の徴収が主)を一任していました。更に簡潔に言うと、京都朝廷や平氏の人々は、東国武士団が割拠する東日本地帯を、京都繁栄のための『税金徴収源と労力確保地』としか見ていなかったのであります。
 その事を最もよく象徴する言葉が、『東夷(あずまえびす・とうい)=(東に棲む野蛮人)』という中国大陸で誕生した言葉であります。
 古代から中国では、自分が大陸の中心(中原/ちゅうげん)を治める最も優れた者(だから「中華」)と自負し、その東西南北、其々の端を辺境国として、その地域に生きる人々を野蛮人と蔑視しました。即ち、北端の人を「北狄(ほくてき)」、西端の人を「西戎(せいじゅう)、南端の人を「南蛮(なんばん)」、そして東端の人を「東夷」と蔑称したのであります。
 これを「華夷思想」とも言われる場合もありますが、先述のように、古来より中国大陸の文化思想を取り入れた日本の大和朝廷および平安朝でも、その華夷思想に影響されて、京都(中原)から東方に住まう東国武士団たちを東夷としたのであります。
 余談ですが、戦国期の織田信長や九州の大友宗麟らが、西洋諸国のスペイン人・ポルトガル人たちと積極的に行った交易を「南蛮貿易」と一般的に言われていますが、その言葉も華夷思想から由来しており、日本あるいは中国大陸の南側に位置する大陸南端のマカオ(澳門)、フィリピン(マニラ)やインドのゴアといった「南蛮」を拠点にして、来航したために戦国期の日本国内で、ポルトガル人ら西洋人を「南蛮人」と総称、彼らとの交易を「南蛮貿易」と言ったのです。
更に無駄話を続けさせて頂くと、日本国の発展方向性「西高東低」、その真逆の「東高西低」という国家発展をしたのが、アメリカ合衆国(北アメリカ大陸)であります。
 米国は、いわゆるワシントン・ニューヨークなどがある東海岸(大西洋側)から欧州諸国からの入植者たちによって切り拓かれ、その開発の波が徐々に、多様な先住民族たち、即ちインディアンが棲息する未開拓地が無限に拡がる内陸部へ浸透するようにして、西へ西へと伝わり、最後にロサンゼルスやシアトルがある西海岸(太平洋側)へと辿り着いたのです。
 これが俗に言われる19世紀の「西部開拓時代」というものであり、この時代を背景にしたカウボーイやガンマンたちの活躍を描いた映画を「西部劇」と呼ばれており、現在でもハリウッド映画の一大ジャンルでなっていることは周知の通りであります。
 米国が、日本の西高東低という発展方向とは真逆の経緯を辿ったのか、という理由は簡単で、読者の皆様ももうお分かりだと思います。それは、18世紀から世界随一の先進国であった西洋諸国の人々が、同地の技術や文化を伴って大西洋を渡り、北アメリカ大陸の東海岸から入ってきたからであります。つまり米国は大西洋を挟んで、東方に当時先進国が軒を連ねていた欧州諸国が存在したからであります。「東高西低」であります。
 先述のように、古代から中世にかけての日本の場合は、東アジアの政治・文化の中心地であった中国大陸が、西方にあったために、九州を含む西日本が、先に発展した「西高東低」であったのです。国内外の地理的環境により、各国々の発展経緯が多様であるというのが、何とも面白いものであります。

閑話休題。
 
 古代日本から西日本重視、東日本蔑視という日本版の華夷思想は、17世紀初頭、即ち戦国期の織豊政権まで濃厚に受け継がれ、それが完全に逆転するのが、徳川家康が江戸に幕府を開いた後に、江戸を中心に関東平野が大発展を遂げたことが発端となり、江戸期後、西日本の雄藩によって創設された明治新政府が、旧江戸、即ち東京を新政府の本拠としたことで、東日本は漸く日本の中心となったのであります。
 そういう意味では、京都から東方の東海地方の生まれである東夷の1人であった徳川家康(徳川幕府)が、江戸と関東を本拠地として、同地の開発に勤しんで、東日本一帯を完全に日本史の主役へと持ち上げたという功績は計り知れません。徳川家康やその子孫たちが、東日本とそこに住まう人々を、完全に日本史の主役に押し上げた、とするならば、最初に東日本を西日本の過酷な桎梏から独立させ、歴史の表舞台の主役にした功績者たちこそ、家康が私淑していた12世紀後半の源頼朝であり、その人物を旗頭とした北条・三浦・和田・梶原・千葉・比企・畠山・土肥などの当時は、東夷と京都人から蔑まれていた草莽の東国武士団たちでありました。これらの勢力が鎌倉幕府成立後に、『御家人』と呼ばれ、その後、約700年も続く武士の世の礎を築いてゆく存在になってゆくことは周知の通りであります。因みに、東国以外にも京都を中心とする西国に、平清盛、頼朝の父である源義朝、佐藤義清(後の西行法師)といった京都御所や公家を守衛する武士(有名な北面の武士)も、同時期に沢山存在したことは確かであります。





 これらは京都朝廷とも密接な関係を持っていた宮廷警察官のような存在であるがため、教養豊かで華やかエリート武士である反面、鄙びた不毛地帯を先祖代々凄惨な想いをして開拓していった東国武士団ようにフロンティア精神や一族内の結束力には欠ける面があったように思われます。この東西の武士団(平清盛は別として)の気質の違いが、最終的に東国武士団が歴史の表舞台に登場する、いわゆる鎌倉武家政権の誕生に繋がったことが要因の1つとなったと筆者は思えるのです。
 
 今更ではありますが、東国武士団とは何か?

 ⓵『(東国)武士とは、武装した開発農場主』『初めて日本史の表舞台に登場した大いなる農民たちである』

(以上、『街道をゆく42 三浦半島記』や『この国のかたち』)
 
 ⓶『当時に対する第一の誤解は、頼朝なり義経を一人の独裁者~いわばベンチャービジネスを企画した小企業主のように錯覚していることである。彼らはそのような存在ではない。もし、小企業主と呼ばれる存在がいたとしたならそれはむしろ各武士団のトップ、いわゆる豪族層がふさわしい。当時は現在と違うから企業内容は農業、つまり彼は大小の農場主であった。そして農場主なら誰でも考えつくように、彼らが望むものは土地の拡張である。当時の地方は一種の無警察状態だから、力ずくで土地を取りあう。自然、彼らはそれぞれが自警団を組織することになる。これが武士のはじまりである。』
 

 (以上、『ナンバー2の人間学 はじめは駄馬のごとく』)

 上記のように東国武士団を正確に著したのは、筆者が私淑する歴史小説家の司馬遼太郎先生(上記⓵)と『小説 北条政子』や『氷環』『炎環』など東国武士団(鎌倉御家人)を主役にした歴史小説をお書きになれた永井路子先生(上記⓶)であります。永井先生の小説が、女優・岩下志麻さん演じる北条政子を主役とした以前のNHK大河ドラマ『草燃える』の原作となったのは、有名であります。因みに、北条政子の弟である北条義時(演:松平健さん)もドラマ後半の主人公の1人として扱われています。実は、三谷幸喜先生の『鎌倉殿の13人』が、初めて北条義時をメインキャストとして扱ったのではなく、永井先生原作の『草燃える』という先例があったのであります。
 
 当時、湿地や山林に覆われ不毛地帯に近かった関東/坂東の地を先祖代々、正しく血と汗を流して切り拓いた開発領主たちが、武士の本当の姿であり、我々現代人が想像するような~戦場で馬上の鎧武者が、互いに名乗りあって一騎打ちをする~という華々しい武士の姿は、飽くまでも副業的なものであったのです。この副業的側面、即ち武装して合戦を疾駆するという、戦う武士の雄姿が強調され、後世「武士=戦闘専門集団」という一面のイメージのみが定着してしまいましたが、本来は自身の家と財産(農地)を自衛するために武装した農場主と農民が武士の興りであります。
 室町期や戦国期になると、農地を拓くことを本業とする開発領主の武士団以外にも、様々な武士団体系が出現します。室町初めの南北朝期に、南朝方の武士として活躍する楠木正成や名和長年といった陸運と海運を本業とする商業流通を傘下に置く新規な武士団も登場し、更に戦国期なると武田信玄のような開墾治水を得意とする農地開発領主の超大物が甲信に割拠するかと思えば、一方では商業を主力として天下の覇権を把握した織田信長のような渾身商業的機略に富むビジネスマン型戦国大名が登場するのであります。
 上記の如く、時代を経ていくごとに、それに応用する形で武士団形態も変化してゆくのですが、武士の起源とは、(重複しますが)、12世紀後半に関東中心に誕生した土地を拓く農業開発領主を本職とする東国武士団たちであります。

 前掲の永井路子先生が著されたように、東国武士団が勃興し始めた当時にあっては、警察権や司法権が確立されていないために、開発領主が開拓した農地を自分自身で防衛しなければいけなかったので、そのために隷下の農民(郎党・家の子)を兵として鍛え、甲冑・刀剣・弓・馬などの武具を揃え軍事力を養うことが必要だったのであります。そして東国武士団たちは、外敵から自身らの農地を護るために戦力を研鑽しために、「騎馬戦(弓馬の道)」に通暁している武者たちを多く輩出することになり、西国の平氏軍を撃破していく無敵ぶりを発揮することになるのであります。
 命を懸けて土地を切り拓き、それを侵そうとする外敵からは、武力を行使して護る。これが武士のスローガンであり、この事から『一所懸命』(後に一生懸命に変換される)という誰もが知る四字熟語が誕生したというのは、余りにも有名です。
 『一つの所に命を懸ける』、これほど鎌倉期~戦国期までの武士団の主体を表現している熟語はないでしょう。北条や三浦などの東国武士団らが、鎌倉幕府の御家人と称せられるようになった後も幕府の主導権を巡り、互いに凄まじい政権争いを展開しますが、それ以前、武士団が武装農場主に過ぎなかった弱小時期も、彼らは互いに農地の領有を巡って、干戈を交えることが多々ありました。「隣の家の芝は青く見える」という言葉があるが如く、隣の豪族の田畑は美田に見える、と言わんばかりに、武力で略奪してやろう!という気持ちが、豪族(東国武士団)の中で横行していたのです。





 
 正に弱肉強食、弱い武士(小農場主)は、強く大きい農場主に取り込まれるといった展開であります。まるで、1980年代に人気を博した漫画「北斗の拳」のようなアウトローな政局が、東国武士団が拠る関東にあったのです。
 当然、武力を以って土地争いをすれば、互いに財力と人材を消耗すること甚だしいので、武士団は互いの一族の間で、婚姻を以って友好関係を築く外交手段を用いて、無用な争いごとは避けるようになります。大河ドラマ内でも描かれていましたが、伊豆の最大勢力であった伊東祐親が自身の娘たちを伊豆の北条時政、三浦半島の実力者・三浦義澄に嫁し、互いに友好関係を結んでいたのが、正にその好例であります。(もっとも、後にこの盟友関係は、源平合戦により破綻することになりますが)
 東国武士団は、関東一円に蜘蛛の糸を張り巡らすが如く、他の豪族の娘たちを嫁にやる・もらう、という具合で、血縁関係を結び、無用な騒乱を控え、結束を固めていったのです。しかしながら、それでも犬猿の仲の豪族同士(三浦氏と大庭一族とその連枝である梶原氏の対立など)では、土地争いが発生してしまうことがありました。
 そのアウトロー的な東国で、東国武士団間の財産争いを、(極力武力行使は避け)、吟味して公平に裁定を下してくれる判事的存在、即ち『武士の棟梁』、そして司法機関がないであろうか?と彼らは強く思うようになってきました。そこで、最もその地位に相応しい人物こそ、伊豆の蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)で、流人生活を送っていた源氏の嫡流・源頼朝(通称:佐(すけ)殿)であります。
 周知の通り、源頼朝は成和天皇を起源(だから源氏と呼ばれる)とする清和源氏の流れをくむ京都出身の武家貴族であり、家柄や血筋としては、開発領主や農場主を出自とする東国武士団を遥かに凌駕します。そして何よりも、頼朝の先祖である八幡太郎こと名将・源義家が、11世紀後半に起こった奥州の大乱「後三年の役」で、東国武士団を率いて、当時の奥州最大勢力の清原氏を討滅した後、義家が私財を割いてまで、源氏に加勢してくれた武士団に恩賞を与えて、武家の棟梁としての役目を忠実に果たしたという歴史があり、東国武士団の間には源氏に好意的であったことも見逃せません。
 もし当時、源義家が東国武士団を悪様に扱っていれば、彼の子孫である源頼朝が、雪崩現象のごとく数多の東国武士団を味方に付けて、源氏が日本中世史を動かす一大勢力になれたかは疑問であります。頼朝の父・源義朝、その庶長子・源義平(悪源太、頼朝の異母長兄)らも、東国(鎌倉)に館を構え、東国武士団と関係を持っていたのも、後年における頼朝決起の一助になったことも間違いありません。
 上記のような父祖の功績の礎としている源頼朝は、それまで伊豆に住する一流人であったにも関わらず、大小の農場主連合組織である東国武士団の棟梁、旗頭として迎え入れられたのであります。彼らが、棟梁・旗頭の佐殿こと源頼朝に期待した役目は、主に以下の通りです。

⓵『父祖伝来の土地の所有権の保証』(敢えて現代風に例えるなら、「法務省」的役割)
⓶『豪族間に諍いが発生した場合は、それを公平に裁定してくれること』(「最高裁判所」的役割)
⓷『戦などで功績を挙げた時、それに見合う恩賞を下賜してくれること』(「財務省」「経理部」的役割)
⓸『中央政府である京都朝廷との外交折衝』(「外務省」的役割)

 源頼朝が1人で、「法務大臣」「最高裁判所長官」「財務大臣」「外務大臣」そして全体を統括する「内閣総理大臣」の多職務を司るといった具合であり、その武家政府の機関が、鎌倉鶴岡八幡宮の東に在った頼朝の居館でもあった大倉御所』(大倉幕府だったのです。
 即ち東国武士団が、頼朝に望んだのは、米国の国防総省(通称:ペンタゴン)のような軍事長官のような勇姿ではなく、武士団の集合組織を難なくまとめてくれる大政治家という姿勢を求めたのであります。また頼朝も、その東国武士団の要望を良く理解しており、硬軟の政策を状況に応じて展開しつつ、武家政権の足固めを進めていったのであります。

以上⓵~⓸の役割を忠実に果たしてくれるのなら、我々東国武士団は、源頼朝様を棟梁(「鎌倉殿」)として敬い、水火を厭わず懸命に働きます。というのが源頼朝と東国武士団、後の鎌倉御家人と成立した相互契約関係でした。これを『御恩と奉公』という封建社会を象徴する言葉として、学校の授業で習うことは、皆様よくご存知のことだと思います。
 この源頼朝、鎌倉殿と東国武士団(御家人)の関係性を永井路子先生は、頼朝を頂点とした『東国ピラミッド』と名付けられ、その説明文は少し長文となりますが、当時産声をあげたばかりの東国武家政権を良く理解できる内容となっていると思いますので、以下に掲載させて頂きます。





 『頼朝の下に有力武将がいて、さらにその下に彼らの部下がいる。頼朝の命令は武将に伝えられ、さらにその下へ下へ流れてゆく。だから頼朝が命令すれば、東国武士団は秩序整然と動く。』
 『部下は直属上官の命令だけ聞いていればいい。そして何がしかの手柄をたてればすなわちそれは上官の手柄にもなる。そして、それはさらに上部の武将の手柄でもある。だから頼朝が直属の武将に褒美を与えれば、それがしだいに下部へ分ち与えられてゆく。つまり手柄は上へ、恩賞は下へといったふうに、そのピラミッドには有機的な血管が通っていたのである。』
 『今日ではどこにでもあるあたりまえのシステムだが、これが明確にできあがったのは、じつはこの時代なのだ。』

(以上、「源頼朝の世界」(中央文庫)文中より)

 社長をトップとし、その下に幹部重役、中間管理職がいて、さらにその下に社員がいるピラミッド組織として、会社を経営していく。永井先生が著されたように、現代企業や何らかの目的で立ち上げられた運営団体にとっては、月並みの組織構造でありますが、源頼朝と東国武士団は、12世紀末という中世日本、しかも東国という当時では未開発地が広がる地方で、現代にも適用可能な組織運営のプロトタイプ(初期モデル)を完成させているのであります。
 東国武士団が、京都出身の源氏の棟梁/武家貴族の源頼朝を組織の旗頭として推戴することで、日本史上初となる本格的武家政権(また司馬遼太郎先生は『農民たちが打ち立てた初めての政権』と著されておれます)、それを打ち立てることによって、東国武士団は自身たちの足場となる関東機構を整えていったのですが、彼らが棟梁である頼朝に望んだことは、もう1つありました。それが、上掲の箇条書きにあります、⓸京都朝廷(西国政権と言い換えてもいいですが)との外交折衝、外務大臣的な役割でした。
 実は、源頼朝が東国武士団から望まれたこの⓸こそ、他のどの役目よりも一番大変だったのではないでしょうか。それは京都朝廷が当時の中央政府で、以前より東国武士団を虐げてきた巨大な存在であったからです。その情勢下の外交というのは困難であるということは想像に難くありません。その弱者の境遇を撥ね退けるための独立戦争を成就させるには、武力もさることながら、駆け引き能力、つまり外交能力や西国情勢に通じている情報力や人脈も必要となってきます。
 その難しい東国武士団の要望にも、源頼朝は見事に応えて、武家政権の運営の糧としています。司馬遼太郎先生は、このことを『頼み頼まれの関係性』(「街道をゆく 三浦半島記」)とお書きになられていますが、この詳細については次回に譲りたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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