源平合戦の英雄・源義経が「天才武将」と言われる本当の理由とは何か?

 三谷幸喜先生脚本のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、石橋山の戦い(1180年)で平氏方の大庭景親軍に大敗北を喫した源頼朝が、房総半島に逃れ態勢を立て直すことに成功し、隅田川を越え武蔵国を経て、代々源氏ゆかりの地である相模鎌倉入りを果たしました。
 第8回「いざ、鎌倉」は、正に源頼朝の捲土重来。頼朝は、伊豆~石橋山の敗戦~房総~武蔵~相模鎌倉と、現在でいう東京湾をぐるりと一周しただけで、多くの東国武士団(坂東武士)を味方に付けることに成功し、忽ち南関東の覇者的地位に成り上がったのです。しかもこれが、石橋山の敗戦から僅か40日間ほどの出来事である、というから源頼朝が乗った東国武士団が巻き起こした歴史的潮流の力強さを感じます。




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 上記のように、馳せ参じた東国武士団の棟梁として地位を築きつつある源頼朝(源義朝三男にして嫡男、母は尾張熱田神宮の宮司の息女・由良御前)の下に、彼の舎弟たちが傘下に入ります。遠江国蒲御厨から異母弟の源範頼(源義朝六男、母は遊女。通称:蒲冠者)、京都醍醐寺から同じく異母弟の阿野全成(源義朝七男、母は常盤御前。幼名は今若丸。醍醐禅師)、そして全成の同腹弟である源義経(源義朝九男、母は常盤御前。幼名:牛若丸。九郎)が奥州平泉から駆けつけてきました。
 
 源義経の同腹兄に当たる阿野全成は幼少の頃より出家僧でもあるので、戦場には赴かず、頼朝の傍近くに仕える私設秘書的のような存在であったと思われ、頼朝存命期も目立った政治的活躍は見られていませんが、頼朝の正室・北条政子の妹である阿波局を正室に迎え入れているので、兄からは信頼されていたと思われます。




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 源範頼は、同族の木曾義仲征討や宿敵・平氏との合戦には、異母弟の源義経と共に、兄・源頼朝の名代(代官/総大将)として東国武士軍団(源氏軍)を率いて、西国各地を転戦しています。
 源平合戦では、どうしてももう1人の頼朝名代の総大将・源義経の大活躍ぶり(悪く言えば義経のスタンドプレーと言い換えてもいいかもしれません)が注目されがちでありますが、源範頼は、独断専行を控えて源頼朝に指示を仰ぐようにし、また頼朝が派遣した目付役である土肥実平和田義盛千葉常胤ら独立心が強い東国武士団を大過なく率いて、平氏軍の勢力基盤である山陽道や北九州を、辛勝ながらも着実に制圧していった大きな功績を挙げています。
 「源範頼=凡庸な大将」というイメージが以前は定着していましたが、鎌倉殿・源頼朝と現地軍・東国武士団の潤滑油的な役目を果たしつつ、最後は平氏軍の最後の砦というべき北九州を制圧し、平氏本軍を長門彦島にて軍事的に孤立させることに成功させた功績が評価されるようになってきています。この源範頼の軍事行動が要因となり、瀬戸内海を東から行軍してきた源義経とその船団は平氏軍を壇ノ浦の戦いで、一挙に殲滅させることができたのであります。果たして、天才・源義経はもう1人の総大将・源範頼の陰ながらの軍功によって、1日で強大な平氏軍を滅ぼすことが出来た、という理を知っていたかどうか?甚だ疑問であります。
 先述のように源義経のように華麗な功績はありませんが、源範頼は、源頼朝や東国武士団といった味方とトラブルを起こすことなく、兵糧不足などの厳しい環境下に置かれながらも(牛歩の如く)戦績を挙げ源氏軍の総大将として役目を果たしているのです。最期は兄・源頼朝から謀反の嫌疑を掛けられた源範頼は、伊豆国に追放されて生涯を終えるのですが、これは平氏滅亡から8年後の事であり、次に紹介させて頂く源義経の末路とは全く違ったものであり、寧ろ壇ノ浦合戦直後の範頼は、鎌倉殿・源頼朝から以前の忠実さと、要所要所で鎌倉殿に指示を仰ぐといった慎重な行動を賞賛されているくらいであります。
 そのように堅実派総大将・源範頼に対して、疾風迅雷にして味方の意向や事情を一向にお構いなしで、強烈なスーパー台風の如く敵味方を巻き込んで平氏軍を滅ぼすことのみに邁進した天才かつ独善的な総大将・源義経は、見事なまでに先述の源範頼とは対照的に、歴史上のスーパースターとなった反面、味方であるはずの源頼朝や東国武士団から総スカンを喰らってしまい、周知の通り、悲劇的な末路を辿ってゆくのであります。




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 『源義経(1159~1189)』、この日本史上有名かつ最も人気がある悲劇の英雄が、天賦の軍事的能力により、戦上手の木曾義仲、源氏の宿敵・平氏軍を討滅したのは皆様よく知る所であります。因みに、その後の日本史の各動乱期にも、天才的な戦略家および戦術家という武将が多く登場します。その好例が、南北朝期の楠木正成、戦国期では上杉謙信立花宗茂、江戸幕末期には高杉晋作らでありますが、源平合戦期の源義経は、左記の天才武将たちの元祖と言える傑物と言えると思います。
 源義経が有していた軍事的能力は、源頼朝を含める他の諸兄らは持ち合わせておらず、一ノ谷・屋島、そして壇ノ浦といった西日本を舞台とした主戦にて、時の覇者・平氏を撃破できたのは、義経が立案および実行した作戦が最大勝因となっていることは間違いありません。政治・組織創りに非凡な才能を発揮しながらも、軍事的能力には恵まれなかった鎌倉殿こと源頼朝が、異母弟ながらも源義経という戦の天才を味方として得ることができたのは、頼朝の幸運の1つでした。
 「源義経が(源平合戦期の)軍事的天才であった」と一般的に謳われる主な理由として挙げられるのは、一ノ谷合戦で寡兵にて逆落しの奇襲攻撃(有名な「鵯越の奇襲」)、続いての屋島の戦いでも陸路からの寡兵での強襲、そして源平最後の合戦である壇ノ浦合戦では、船から別の船へと軽業師のように華麗に飛び越えて戦った「八艘飛び」の逸話、等々がありまして、いわゆる日本人好みの「寡を以って衆を討つ」とい芸術的な(奇想天外な)奇襲攻撃を断行し、大成功させたことが義経=天才武将というイメージが固定しています。
 上掲の源義経(日本人好み)の輝かしい戦歴は、「平家物語」や「義経記」といった軍記物語に拠っているものであり、義経が無謀な逆落しの奇襲などは断行していないという学説が近年では有力になってきているようです。奇襲攻撃などが現実的ではない、とすれば軍事面において源義経が、何が素晴らしかったのか?という話になってまいります。
 源義経が後世まで、人気がある軍事の天才と謳われる主因は、『(源平合戦の当時では)常に合理的な戦術を採用していたから』であります。決して、軍記物語にあるような義経が鬼一法眼(或いは天狗)などから六韜三略を学び、詐術や荒唐無稽に満ちた奇襲攻撃を成功させたからではありません。
 前掲の「合理的な戦術」の事を詳しく紹介させて頂くと、敵勢力の兵力や武士の強弱を知るための『諜報/情報収集』、敵を容易く撃破するために必要な人材の確保、或いは敵武将への寝返り工作などの『調略外交』、敵が保有している戦力を上回るほどの軍事物資(軍船や矢箭)を集める『兵站』
 『諜報』『調略』『兵站』といった3部門は、戦国期の織田信長の台頭頃から重要視されてくるようになり、近代明治になると日本帝国海軍の海軍軍人・加藤友三郎や秋山真之らによって3部門は「戦務」として統括され更に洗練ようになりました。そして現代軍事戦略でも3部門は必要不可欠なものとなっていることは間違いありません。
 上記のように近現代の軍事では最重要視されている諜報や兵站ではありますが、その事を兵法や軍事学が洗練されつつある時期の織田信長や秋山真之より遥か先人である12世紀後半の武将・源義経が会得していたことが驚嘆すべきことでしょう。
 源義経在世当時は、中国大陸から孫子・六韜・三略など古代兵法書が日本に導入されていましたが、それらは公家や寺院といった限られた教養人の所有物であり、当時未開の地・坂東地方で棲んでいる文字も書くことができない無教養な東国武士団(東夷)たちにとって、中国兵法書は殆ど無縁な代物であったと思います。また自分の手足の如く数万の大軍団を操って敵を撃破するという戦略も、当時の東国はじめとする全国の武士団にとっては無用な長物でもあったことでしょう。
 源平合戦期の12世紀在世当時の武士団が、数万の軍勢を動員できるほど能力を持っておらず、当時の日本でもそれを実現できるほどの人口や経済力もありませんでした。因みに、集団戦法を最初に駆使し、平氏軍を撃破したのが、当時、源義経と軍事の天才の双璧を成した木曾義仲であります。木曾義仲が用いた自軍を七つの陣形で敵を撃破する戦法、俗に「木曾七陣の計」と言われていますが、個人戦を主体とする源平合戦の当時において、集団戦を用いたのは画期的な戦法でした。
 「吾妻鏡」の中に、源頼朝に味方した大物東国武士の上総広常(大河ドラマでは佐藤浩市さんが演じておられますね)が2万騎を率いて参陣したことや、富士川の合戦では平氏軍は7万騎に対して頼朝率いる源氏軍は20万騎であった、あったという荒唐無稽な兵力数が記述されていますが、周知の通り、これは明らかな虚飾であります。先述のように当時の日本では、これほど大軍勢を動員できるほどの人口と経済基盤がありません。
 尤も源頼朝に加勢した前掲の上総広常は、他の東国武士団を圧倒するほどの兵力を動員したのは確かのようですが、多くても1000騎ぐらいだったと思います。同じく頼朝に加勢した千葉常胤や北関東の下野の有力武士団・小山朝政も数百騎を率いて参戦した、という記述もあるので、当時の有力武士団でさえ数百の軍勢しか動かせないのです。(しかしながら、数百の人員を揃えるというのもたいしたものであります。現在でも何らかの行事や催物で数百の人数を揃えるというのは、至難の業であります)
 後世の戦国期や近代軍隊が創設された頃の明治期のように、人口や経済力が成長する変革期になると、大軍を動員できるほどの装備や食料などを揃えるほどの兵站能力(財力と人員)を持つ権力者(織田信長や豊臣秀吉が好例)が登場しますが、ようやく律令体制から脱却し武家社会が誕生したばかりの未発達期の12世紀末、それまで鄙びた地方の土地を開拓する農場主に過ぎなかった東国武士団、そして彼らを束ねる源頼朝が、それほどの権力も財力も持ち合わせていませんでした。(たとえあったにしても、兵站を担う近世における石田三成長束正家などのような天才的な官僚武将が、源平期にはいなかったのではないでしょうか)




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 数千以上の大軍を動員するのが不可能である武士団たちにとって、集団戦を説く兵法などは無用の長物であったであろう12世紀末、武士たちの間で重んじられていたのは、個人VS個人が華麗かつ正々堂々と戦う「一騎打ち」であります。そのために、武士団にとって「騎馬」と「弓術」の体得が必須科目でありました。即ち現代風に譬えると乗馬と弓道であります。
 源平合戦期の『弓馬の道』(騎射術)を極めてこそ武士である、というものであり、その鍛錬のために武士団、特に古代より馬牧場が多かった奥州から坂東地方に割拠しており騎馬戦を得意とした東国武士団は、疾駆する馬上で矢を放つ武術「流鏑馬」「笠懸」「犬追物」に精進していたのであります。
 現在でも武家の聖地として崇められる鎌倉鶴岡八幡宮にて、4月に開催される鎌倉まつり、9月の鶴岡八幡宮例大祭で流鏑馬神事が奉納されていますが、この起源は鎌倉殿・源頼朝が1187年に催した放生会において、東国武士団(鎌倉御家人)の軍事演習も兼ねて流鏑馬大会を奉納したのが始まりであると言われています。観光客を楽しませてくれる鶴岡八幡宮での流鏑馬神事も元を辿れば、東国武士団が重視した弓馬の道を極めるための軍事演習だったのです。
 個人戦である一騎打ち、そのために鍛える弓馬の道(騎射術)。これには我々が想像するような戦争の光景、即ち大軍同士がぶつかり合う集団戦には不要になるものであります。(少なくとも必要不可欠なものとはなりません)
 大軍を効率よく動かくために必要なものは何か?重複しますが、それは軍勢を動かすための情報収集や下工作、「諜報」や戦力を整えるための武具や軍船を充実させる下準備「兵站」であります。こうなると合理的な戦略を旨とする軍事学という大仰な部門となってしまい、弓馬一辺倒に励んでいた東国武士団にとっては手に余るものであります。そこで登場したのが、源頼朝の異母弟である源義経であります。
 源義経が展開した対平氏軍の軍事作戦および行軍は、それまでの合戦の在り方(騎馬武者の一騎打ちとその郎党たちのぶつかり合い、即ち現場での出たとこ勝負戦)から見れば、一線を劃したものでありました。
 先ず源義経が、軍事行動を起こす前に行ったのが諜報戦術でした。平氏軍が拠っている地形(摂津一ノ谷や讃岐屋島)を丹念に調べ、何処から攻め込めば源氏軍にとって有利になるのか、という合理的な戦術を考えています。屋島の戦いでは、源義経が平氏本陣正面である瀬戸内海側から攻撃せず、暴風雨の中、海路迂回して背後の陸路から奇襲攻撃を仕掛けて平氏軍を潰走させたのは有名であります。
 長く瀬戸内海をはじめとする西日本を本拠としていた平氏軍は、優れた海賊衆を有し水上戦を得手としている一方、源氏軍の中核を成す東国武士団らは、騎馬戦(陸上戦)を得意とする軍団であり、源義経は敵味方の長短を知り抜いた上で、「味方の長所を以って、敵の弱点を衝く」の戦術を、屋島の戦いで採ったのであります。
 孫子の兵法に『彼を知り、己を知れば殆からず』(謀攻篇)というあまりにも有名な一節がりますが、源義経はその優れた体現者として、敵の情報を丹念に収集することにより、その強弱を見極めて、味方に有利になるよう合理的な戦術を採用していったのであります。
 源義経が敵方の情報を収集するに当たり、反平氏軍の現地武士団から敵軍情報を得ることも重要視しており、また平氏軍に加担している武将にも源氏軍に加勢するように情報戦も仕掛けています。摂津一ノ谷の戦いでは、義経が丹波方面(山岳の搦手口)の大将として進軍していたことは周知の通りですが、その途上の播磨国山中で猟師をしていた鷲尾義久(三郎)を道案内役として武士として抜擢、また摂津国の地理風俗を熟知していた多田行綱(摂津多田荘を本貫地とする多田源氏)という武将と連携して、一ノ谷を本陣とする平氏軍を、山間から奇襲することで撃破しています。
 寧ろ多田行綱が、鵯越の逆落しの奇襲を敢行した、という説があるくらいでありますが、肝心なのは多田行綱、鷲尾義久といった在地の地理や情報に通じた武将を味方に引き入れて活用することにより、勝利を導き出したのが源義経の凄さと言えるでしょう。
 海上戦となる屋島合戦と壇ノ浦合戦でも、源義経は奇襲といった賭博的な戦術を主眼とするよりも、上記のように情報収集、現地武士の味方引き入れなどを行い、入念な準備をした上で平氏軍に攻撃を仕掛けています。
 軍記物語の中では、源義経が屋島の戦いの折、源頼朝から差遣されていた軍監・梶原景時と激しい口論の末、無理やり四国へと押し渡って屋島の平氏軍を奇襲した、というように描かれていますが、事実は違っており、義経は屋島へ行軍する1ヶ月前から海賊衆への懐柔および軍船の準備、即ち制海権の確保、四国の反平氏方の武士団と情報の遣り取り、といった入念な準備をしているのであります。軍事用語でいう『兵站』に力を入れています。そして、『制海権(海路)』の確保についても、源義経は見事であります。
 先の一ノ谷の合戦で、源義経は鷲尾義久や多田行綱といった現地武士を活用することで、源氏軍の強化したことは先述の通りですが、屋島の合戦でも、摂津渡辺津(渡辺姓の起源地)の「海賊衆・渡辺党」、紀州熊野海賊衆を率いる熊野三山を統括する別当「湛増(伝承では、源義経の筆頭郎党である武蔵坊弁慶の実父)」といった当時、難波津/渡辺津(現在の大阪湾)~紀州灘一帯の制海権を有していた水軍衆を味方に引き入れた上で、四国への渡海を敢行しているのであります。その確実な制海権把握の下、四国(讃岐)に上陸に成功した源義経は、阿波国を拠点とする平氏方の武士・近藤親家をも味方に引き入れることに成功し、平氏軍本陣・屋島の布陣や地理情報を入手して、先述の平氏軍の意表を突く陸路(背後)からの奇襲攻撃によって大勝利を収めています。
 現在の大阪湾~紀州灘の制海権を握っている複数の水軍衆、敵情勢と四国内陸の地形に詳しい現地武士らを味方に引き入れた上で、神算的とも思える奇襲攻撃で平氏軍を撃破する。この源義経が展開した合理的な用兵術は、(白状すると、義経があまり好きでない筆者でも)、本当に素晴らしいものである!と胸が熱くなります。源義経、正に軍略の天才であります。
 源義経と同じく源氏軍の総大将を務め、山陽道を牛歩の如く進軍する源範頼と何て違いでしょう。いや、源範頼の方が普通であり、源義経の方が特別かつ異常なのであります。義経が、実際どのような方法を以って水軍衆や四国の現地武士を味方に引き入れたのかは不明でありますが、それらの勢力、しかも平氏軍と所縁が深い西日本を本拠とする面々を味方に引き入れるということを画策し、しかもその困難な策を実現する手腕を持っている、ということを見ても源義経は非凡な総大将であることが判ります。
 軍記物語上や伝承などでは、源氏・平氏のどちらかが味方をしようか逡巡した熊野海賊衆の別当湛増が、「闘鶏(鶏合せとも)」で以って合戦の行方について神意を問うたことがあります。その真贋はともかく、源義経には、その時代の他の武士よりも情報収集や調略といった諜報戦に非凡な才能を発揮したことは確実であります。これは筆者の邪推でありますが、もしかしたら源義経本人よりも、彼の傍に侍る郎党たちが、その道に通暁した逸材であったかもしれません。
 軍記物の源平盛衰記や義経記など創作の中では、源義経は異色異才の人材を登用していたことは有名であります。怪力無双の荒法師「武蔵坊弁慶」を筆頭に、元盗賊の「伊勢義盛(伊勢三郎の名前で有名)」、金売り吉次のモデルとされる商人上がりの「堀景光」などなど、義経の家来衆は異色であります。中でも伊勢義盛が、盗賊であったために潜入調査などが得意な上、弁舌に優れてもいたので、情報収集や敵武将への寝返り工作を担当していた、という伝承があります。屋島合戦で、源氏軍に味方した前掲の近藤親家は、伊勢義盛が口説き落としたという逸話もあるくらいであります。
 上記のような源義経が召し抱えていた異色(ある意味でアウトロー的)の郎党の伝承類を全て信じてしまうのも眉唾物でありまが、一ノ谷合戦や屋島合戦で展開した源義経の合理的かつ鮮やかな軍事作戦(特に諜報戦)を考えてみれば、当時異色であった情報戦に通じていた人材を揃えていたのではないでしょうか。
 情報戦などは、弓馬の道のみに精進してきた東国武士団にとっては未知なものであります。そして、その好例と言える和田義盛・三浦義澄・土肥実平といった有力東国武士団は、源義経軍ではなく、山陽道を進軍する源範頼軍に配属されており、範頼は義経陣営のように異色な人材がいなかったのではないでしょうか。その事が、源範頼軍が兵糧武具の不足や平氏軍の反攻を招くに至り、山陽道の各地で苦戦するという羽目に陥った、と思えるのです。
 もっとも源範頼軍が源氏軍本隊(大手軍)、源義経が源氏別動隊(搦手軍)と平氏軍に思われおり、その首脳部は範頼本隊を撃破するために、範頼担当の山陽道の防備を強化したので、範頼軍の遠征が芳しくなかったかもしれませんが。




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 源平合戦の最終ラウンドの壇ノ浦合戦でも、主力が水上戦となるということを知っていた源義経は、瀬戸内海を拠点とする伊予海賊衆の頭領「河野通信(鎌倉期の時宗の開祖・一遍上人の祖父)」を味方に引き入れ、また周防国の現地武士であり国衙の船を管理する船所の五郎正利から軍船数十艘を調達するなど、源氏軍の海上戦力充実。および平氏軍を弱体化させるために1ヶ月間、決戦に向けて準備しています。
 よく現在の仕事の世界で『段取り八割』、即ち準備が重要!という名言がありますが、対平氏軍戦前における源義経は徹頭徹尾、準備に準備を重ねる名将でした。また先述のように、源氏軍主力である源範頼軍が苦戦の末、平氏軍の勢力圏である北九州を壇ノ浦決戦直前に制圧して、平氏軍本隊の退路や補給路を断って、周防彦島で孤立に成功させたことも源氏軍にとっては大きな戦果でした。この時点で最早、平氏の滅亡は決定的なものとなっています。
 源義経の水軍衆引き入れ工作、瀬戸内海の制海権の確保、源範頼の北九州制圧成功の連携軍事作戦が功を奏し、壇ノ浦合戦では、水軍のプロである平氏水軍500艘に対して、海上戦で不慣れであるはずの東国の源氏軍が、軍船約800艘(一説では3000艘説もあり)というように、平氏軍を大きく上回る海上戦力を壇ノ浦に集結させています。更に馬関海峡周辺の海岸線からは、弓馬の道の通暁者たちである和田義盛を筆頭とする東国武士団を主力とする源範頼軍3万が、弓矢による援護射撃体制も整えていた、と言われていますので、平氏軍からしてみれば陸海から挟撃されるという戦術上、最悪な戦況になっています。
 
 1185年4月25日(寿永4年3月24日)正午頃に始まったと言われる源平最終決戦というべき壇ノ浦合戦の経過および結果は周知の通りでありますので、ここでは割愛させて頂きますが、初めは、水軍の運用に長けていた平氏軍(総大将は名将・平知盛。平清盛の四男)が優勢であったと言われていますが、九州からの補給や退路を断たれた上、陸の源範頼と海の源義経の両大軍に挟撃されている平氏軍は、海上戦で必要な飛道具・矢などが尽き始め、午後になると疲弊が目立つようになりました。
 追い詰められていく平氏軍にとって致命傷となったのは、源義経率いる水軍衆によって、平氏水軍の水夫や船頭を射撃されたことでしょう。
 源義経が、平氏水軍の機動力を奪うために、敵の水夫や舵取りといった非戦闘員を狙撃したことは有名でありますが、これもリアリスト軍人・源義経の真骨頂というべきものではないでしょうか。大軍である源氏水軍に対して、孤立している平氏水軍が善戦しているのは、平氏軍の将兵が軍船の扱いに慣れているからである。そしたらその手足(機動力)を奪ってしまえばよいではないか。と源義経は考え、平氏水軍の舵取りを射殺しまくったのであります。
 水夫や船頭を射殺された平氏軍も、源氏水軍の水夫らを射ればいいことなのですが、開戦以前から周防彦島で孤立させられた平氏軍は、武具や兵員の補給がままならない程のジリ貧状態であり、敵方の水夫らを射殺す矢箭に欠乏していたのでしょう。この平氏軍の困窮ぶりは、はるか後の1575年長篠設楽原の戦いで、強大な経済力、それらから抽出される軍事・兵站能力を持つ織田信長・徳川家康連合軍の前に、敗れ去った最強軍団の甲斐武田軍や昭和初期、太平洋戦争によって超大国の英米連合軍に兵站を徹底的に破壊されて、壊滅あるいは自滅していった旧日本陸海空軍を思い起こさせます。
 源義経、織田信長、太平洋戦争期の英米軍の敵を追い詰める作戦原理は、子供でも解る非常に単純明快なものであり、それらを箇条書きで纏めれば以下の通りであります。

⓵『可能な限り、敵情勢を探りその弱点を見つける』
⓶『敵より多くの兵員や武器を揃える』
⓷『敵を弱体化させるための兵站遮断などの工作も施す』
⓸『そして、最後は「大軍に兵法なし」の如く、自身は大軍勢を率いて、弱っている敵を包囲して叩く。』

合戦を有利に運ぶには上記の4つだけであります。更にこれらを簡単な言葉で表すと「準備/根回し」であります。(しかしこの4つの実現が最も困難なタスクであるということも事実でありますが)

 中世史がご専門の呉座勇一先生(ベストセラー「応仁の乱」の著者で有名)は、『源義経は、奇襲など無謀な戦い方をしているようなイメージが強いですが、決してイケイケドンドンの武将ではなかった』と、NHKBSプレミアムの歴史番組『英雄たちの選択』でご出演されていたときに仰っておられました。
 源義経は、一ノ谷・屋島、壇ノ浦といった対平氏軍との主要な合戦で快勝し、後々まで「英雄」「軍事の天才」と謳われるのは、呉座勇一先生が言われた通り、合理的な戦い方をしていたからであります。そして、この作戦や用兵が、一騎打ちという個人戦が主流とされていた源平合戦期では、諜報作戦や寝返り工作などはとても斬新なものであり、それを考案かつ実現させたことこそが、天才・源義経なのであります。




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 上記の通り、軍事面では合理的な作戦を立案運用していった天才・源義経ではありますが、スタンドプレー(独善的な行動)を好み、その軍事行動中に、味方であるはずの庶兄・源範頼や東国武士団と軋轢や対立を生じさせたのも事実であります。その筆頭的好例が、源義経本人と源頼朝から義経軍の軍監(目付)役として差遣されていた梶原景時(通称:平三、侍所所司)との対立であります。俗に屋島合戦での「逆櫓事件」、壇ノ浦合戦での布陣を巡っての口論が象徴的であります。
 江戸期に隆盛を極めた歌舞伎や芝居などで源義経を主人公とした演目(「勧進帳」「義経千本桜」など)が、大いに持て囃されたことが影響し、「源義経=善玉/悲劇の英雄」、その彼を讒言で陥れた軍監・梶原景時は問答無用の「悪玉/陰湿かつ狡猾な策謀」というイメージが創作の世界で定着しました。梶原景時という悪役イメージが完成した経緯は、同じく江戸期に流行した忠臣蔵講談における仇敵役・吉良上野介(義央)と似ています。
 実際は源義経の独善的かつ傲岸不遜な性格が原因となり、自身は鎌倉殿・源頼朝の代理総大将(代官)であるという限定的な身分を忘れ、戦時中に同僚である梶原景時や東国武士団に対して協調性を欠いた行動をとり続けたことが、遂には彼らの旗頭である源頼朝の怒りに触れ、義経自身の失脚の一因となっています。これを鑑みると、平氏軍との悪戦苦闘、和田義盛や土肥実平といった武士団の調整に苦心しながらも、頻繁に源頼朝の指示を仰ぎつつ味方同士の大きな対立を生むことなく、山陽道や九州を制圧していった義経の異母兄・源範頼は、義経とは好対照であることがわかります。




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 東国武士団の推戴によって成り立っている代表者に過ぎない、という政治的認識を持っている源頼朝。その辛苦が判らず鎌倉殿の舎弟である自分は、他の武士団よりも特別な存在である、という認識を持ってしまっている源義経。この兄弟間の『認識のズレ』も、平氏追討直後の兄弟間の対立の起因の1つとなっているのですが、他にもう1つ存在していた『認識のズレ』も頼朝義経兄弟の対立、ひいては義経転落の発端となっています。それは当時2人が持っていた『朝廷(特に後白河法皇)』に対して持っていた政治的認識の違いのことなのですが、この詳細は次回に譲りたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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