俊寛(しゅんかん)~平清盛に背き孤島に果てた高僧の悲劇




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俊寛とは

俊寛(しゅんかん)は康治2年(1143年)、仁和寺の院家(※1)を務める寛雅と源国房の娘である宰相局の子として生まれました。父・寛雅は木寺法印とも呼ばれる真言宗の僧で、父方の祖父には村上源氏の公家である源雅俊がいます。

名高い貴族の家柄に生まれ、後世でも著名な人物である俊寛の少年時代~青年期における動向は不明ですが、彼もまた父と同じく僧籍に入って少僧都になり、法勝寺の執行(※2)を拝命しました。また、承安4年(1174年)には仁和寺蓮華心院供養で上座(指導者的地位にある僧)を務めた事により、息子の俊玄が法橋(※3)の位を賜っています。

更に、姉妹にあたる大納言局が平頼盛(平清盛の弟)の妻になっており、俊寛は貴族階級出身の僧侶であると同時に、新たに勃興した武士勢力である平家と縁続きの人物でもあったのです。そして俊寛自身も後白河法皇の近臣として仕えており、栄光に満ちた花も実もある人生を過ごしていました。

しかし、その栄華にも陰りが見え始めます。安元3年(1177年)、平家打倒の密談すなわち鹿ヶ谷の陰謀に加わったとして俊寛は捕らえられ、藤原成経(藤原成親の息子)や平康頼と共に鬼界ヶ島(※4)へと流罪になりました。『平家物語』では俊寛の山荘で陰謀が行われたと記されていますが、歴史書『愚管抄』によると信西の子である静賢法印の屋敷とされ、文献で差異が生じています。

鬼界ヶ島への配流

流刑に処された俊寛のその後について『愚管抄』は、硫黄島と言うところへ追放され、その地で死去したとしか記していませんが、もっとも人口に膾炙しているのは『平家物語』に記された彼の末路です。ここからは、『平家物語』の記述に沿って俊寛のその後を紹介します。

成経と康頼は千本の卒塔婆を作って海に流すが、僧侶でありながら傲慢で不信心な俊寛はそれを軽蔑して参加せず、一年が過ぎます。翌年、厳島に流れ着いた罪人らの卒塔婆の事を知った清盛は彼らの行いに心打たれたのと、高倉天皇(後白河法皇の子)の妃で懐妊していた自分の娘・徳子の安産を願うのを理由にして恩赦に踏み切りますが、

「俊寛のやつは私の後ろ盾で一人前になったのに、彼奴めは鹿ヶ谷の山荘を提供して良からぬたくらみをしおった。俊寛は許しがたいものだ」
恩を仇で返されたと怒り狂う清盛は、俊寛赦免を訴える長男・平重盛の言葉を聞く事もせず、成経と康頼だけを許したのです。

自分だけが赦免されなかった俊寛の憤慨と嘆きは大きく、
「私達は犯した罪も流刑地も同じだ。それなのに私だけが残る事になるのか?これは平家の思い忘れか、文書を書いた者の間違いなのだろうか?」
「成経君。私が処罰されたのも、あなたのお父様がつまらぬ謀反など企てたのが原因なのですぞ。だから、他人事とは思わないでほしい。京都まで帰れずとも、九州まで連れて行ってください」

しかし、使者は無情にも俊寛を振り払うと船を出向させ、成経と康頼だけを連れていってしまいました。俊寛はそれでも諦めきれず、「これ、乗せて行け、連れて行け!」と足をばたつかせて泣き叫んだと言います。

治承3年(1179年)、主人が戻らないのを憂えた俊寛に仕えていた侍童の有王は、俊寛の娘から手紙を受け取ると鬼界ヶ島に向かいました。艱難辛苦の末に島に着いた有王は、長い離島暮らしで変わり果てた主人に再会します。

俊寛が捕まった後に身内の者は皆殺しの憂き目を見たこと、鞍馬に逃れた俊寛の妻と息子(史実における俊玄との関係性は不明)が病死してしまったことを告げ、娘の手紙を俊寛に渡しました。
「御覧なさい、君を共にして帰京するようにと書いているのは恨めしい事です。思うままになるならば、どうして3年も離れ島で過ごそうか。12歳ながらここまで幼いとなると、心もとないものだね」
と、己の境遇や悲惨な運命を辿った家族を思い、嘆きます。

死後も生き続ける俊寛伝説

そして「生き恥をさらしたのも妻子に会いたいがためだった…我が娘の事は気にかかるが、嘆きつつも彼女は生きてゆくでしょう。生きながらえて君を悩ませるのも、申し訳が立たない事だよ」
有王に決意を伝えると俊寛は、自害すべく食を一切断って念仏を唱え、23日の後に死去(※5)しました。享年37歳の若さだったと言います。その遺体は声をあげて泣く有王によって荼毘に付され、高野山奥の院に納められました。

栄華に満ちた前半生と失脚した後半生、とりわけ流刑地でのみじめな末路と、まさしく転変常なき人生を生きた俊寛の数奇な一生は、文学のみならず芸能にとっても格好の題材となり、能『俊寛』や人形浄瑠璃『平家女護島』などが著名です。また、源為朝や源義経が生き延びた伝説と同様、俊寛にも鬼界ヶ島から脱出したと言う伝説があり、鹿児島県や佐賀県など、西日本各地にゆかりの史跡が残っています。

近代以降も菊池寛・芥川龍之介両氏によって『俊寛』が執筆され、前者は島の女を愛して鬼界ヶ島に定住するハッピーエンドになり、後者は有王を語り部として俊寛の離島暮らしと心境が描写された短編小説です。また、アニメ『平家物語』では声優の土田大さんが俊寛を演じられます。

平家に背いたがために栄光の道を断たれ、絶域の地に追放されてその生涯を終えた俊寛の一生は、今も多くの日本人の心に様々な形で夢と創作意欲を与え続けていくことでしょう。

(※1)貴族や皇族出身の僧侶
(※2) 寺の庶務を司る僧職
(※3)僧位の第3位
(※4)鹿児島県の喜界島ないしは硫黄島、長崎県の伊王島とする説も存在する
(※5)自害ではなく、衰弱死したことや程なく死んだとする作品もあり

参考サイト

ヒストリスト 
鹿児島県公式ホームページ 
愚管抄(巻第五)  
芥川龍之介 俊寛 
菊池寛 俊寛 

(寄稿)太田

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